今回のエントリーは、珍しく「論評」たるを主としてではなく「議論の叩き台」たるを主として展開するものである。名付けて「識る場」シリーズ。
コメント欄にゲストを招き、私とその方とで異なる立場からの議論を進めていく予定となっている。当ブログでは初の試みゆえ、期待半分不安半分というところであろうか。
テーマは、簡単に言うと「憲法改正の限界点」。
憲法──国家の基本法、様々な基本権(国家権力から個人の人権までを広く包括する)を定義・制御する基本法たる憲法典を持つ近代民主政治(立憲君主制も一応含む)国家を想定比較範囲とし、目的としては現行の「日本国憲法」における「憲法改正(改訂)問題」……いわゆる憲法9条を中心とした現状是非の議論に繋げていきたい、と考えている。
もちろん、議論の方向によっては多少の寄り道もあろうが、今回は「憲法9条問題」がテーマの設立動機・主たる視点・議論の結節点であることを最初にお断りしておく。
なお、議題元となったのはブログ
「憲法改正社」の
こちらのエントリー。記事タイトルは「伊藤真=平気で嘘をつくカリスマ護憲派」、といささか過激ではあるがご容赦いただきたい。
ブログ名等からその論説スタンスは明々白々であろうゆえ、特に改めて紹介はしない。興味があれば元記事参照ついでに他の記事もご覧になるとよいだろう。
※参照先のHN「Tamanegi」は、私ことタマネギ愛国者本人である。
それに合わせて、この「議論用エントリー」のコメント欄では、私・タマネギ愛国者はHN「Tamanegi」として発言するものとする。
先の参照エントリー
「伊藤真=平気で嘘をつくカリスマ護憲派」にて紹介されている「伊藤真」氏、東大卒の弁護士にして「司法試験のカリスマ講師」として知られる方らしい。日本国憲法に対しても護憲派の立場から一家言あり、著書も出されているとのこと。
ブログ「憲法改正社」では、この伊藤氏の著書のひとつに対して強烈に批判を行なっている。
抜粋された伊藤氏(の著書)の主張にいわく、
「改憲派はよく「憲法を60年以上も手をつけず変更もしない近代国家など他にない」と言って護憲派を批判する」
「だが、それら憲法を変えた国々(例えばアメリカやドイツ)は、憲法の「根」や「幹」にあたる部分にはいっさい手をつけていない」
「戦争も革命もない平時に、憲法の基本原則を変えた国は世界に存在しない」
とのことである。
この流れから、著者の意図が「よって日本が憲法を変えないのはおかしい事ではない」という向きであろう事は類推できるところである。
この流れの延長として、著書からあらわれる著者の意図はどうも「9条は「幹」にあたり、ドイツの手続きレベルの「軽い」改正例との比較は無用」……という事のようである。
(※3/7傍線部修正)
それに対して、記事では「否、憲法の基本原則を変えた例はある。例えばまさにそのドイツ」という流れで、
「ドイツは毎年のように基本法(憲法にあたる)を変えているが、その内容には根本的な変更も少なくない」
「例:兵役義務の追加(1954)、徴兵及び軍隊保持の明記(1956)、有事条項追加(1968)、統一による東ドイツへの基本法適用(1990)、EU参加に対応した改正(1992)」
「これらが「枝葉」でしかないのか、「根や幹」ではないのか、「基本原則」ではないと言うのか?」
という批判となっている。
要するに
「伊藤氏の言うドイツだって軍事・国家有事に関わる憲法改正をしている、いわんや日本をや」という話になろう。
そもそも伊藤氏が著書内で「では例えばドイツ基本法の「幹」とは何か」等、比較対象を明確にしていないそうなので「じゃあ日本の憲法は何が「幹」なのか、そもそも憲法典の「幹」って何なのさ」という定義論になってしまう。これではドイツを引き合いに護憲を主張するのには極めて不足である。
個人的には、記事のこの批判は一定の納得をもって頷けるところである。
さて、それに対して反論があった。
今回ゲストとしてお招きする事になっている、HN「Looper」氏である。
ブログ「憲法改正社」の管理者・「静流」氏とは長期に渡り少々因縁があるとのことで、参照先のコメント欄でも初っ端から双方やや表現の荒いやりとりが散見されるが、まあそれは流してLooper氏の反論内容を追っていくと、だいたい以下になる。
「伊藤氏の「憲法の基本原則を改正しようとした先進諸国はない」という主張は嘘でも間違いでもない」
「例示された改正内容は「基本原則」ではない。伊藤氏いわく、ドイツ憲法の基本原則は「人間の尊厳や憲法に対する忠誠心など」の部分である」
「日本国憲法であれば「国民主権、人権の尊重主義、平和主義など」が、一般的に改正権を拘束される基本原則である」
「ドイツの憲法学者たちも「過去48回の改正で基本的な内容は変わっていない」旨を述べている」
端的に言えば「ドイツは軍備に関して憲法を変えても基本変更にならない、日本は同じ事をすると基本変更になる」という説になるのであろうか。
根拠として「ドイツは基本法内で変更不可能な条文を定めている=それが基本原則」、「日本は憲法前文で基本原則を定めている=そのうちの平和主義の記述こそが9条にあたり、その変更(軍隊保持に向けた改訂)は不能」という感じに述べられている。
さて、私としてはこの反論のうち前者には特に異論はない。
なにせドイツ基本法は条文に「変えるべからず」を明記してあるというのだから、これほど明快な「改正限界」はない。
しかし、後者はどうだろう。前文に
「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」
とあるからといって、それがすなわち9条=基本原則となるというのはいささか論理飛躍であろうと思われる。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
とも前文にあるように、日本国憲法はこと国家国民の防衛に関して
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」するとしており、敵意と支配欲をもって向かってくる国やその民に対しては「安全と生存を保持」できないのである。「信頼」しても強盗に一方的に襲われて殺されればハイそれまでよ、という話。
(実際、韓国や旧ソ連、近くは北朝鮮に不当に殺された国民に対する国家間補償はなんらなされていない)
また、ドイツを引き合いに出すならば、日本の憲法問題にも造詣の深いドイツの憲法学者ミヒャエル=クレプファー氏(「(ドイツ基本法の)
48回の改正は建物内部を変えたけれども、建物自体は変えていない」と述べた人。フンボルト大学教授)は、同じ場で
「日本国憲法との相違点だが、(ドイツには)侵略戦争を禁止するから軍備を一切持たないという考えはない。」
「(ドイツ基本法が基本的な内容は変わっていない、とするショルツ氏(ドイツ連邦議会法務委員長)の)意見は少し離れていると思う。」
「(基本法制定)当時は多くの欠陥があった。要するに、憲法の必要性に基づいて、今までの改正で空白を埋めていったのである。」
などとも述べている。現実・実務性重視の憲法観は、私のもつ憲法観と割に近しい(と言っては失礼にあたるかもだが)と言えるかもしれない。
先の建物云々という比喩も、「大きな変更ではない」という論を否定するものに思える。「中身は完全に様変わりしたが、建て替えたわけではない」と言っているに等しいわけであるし。あとは「大きい変更=幹の変更」かそうでないか、という水掛け論になろう。
(少なくとも「内部は完全に改築された」という表現は、明らかに伊藤氏著書の主張(「ドイツの改正は枝葉のみ」)とは真逆である)
また、同じく著名な憲法学者にしてドイツの憲法裁判所裁判官でもあった故・コンラート=ヘッセ氏は、
「憲法は平常時においてだけでなく、緊急時および危機的状況にあっても真価を発揮しなければならない。
憲法が危機を克服するための配慮をしていない時は、責任ある国家機関は、決定的瞬間において憲法を無視する挙に出るほかにすべはない」
と述べたそうな。
国家の基本法に対する一般論を述べたと思われるこの文章だが、妙に日本の直面している「不整合」に符合しているのは穿ち過ぎだろうか……。
結局のところ、憲法の改正とは究極的には憲法そのものの固有性(日本はどう、ドイツはどう等)とは無関係に、どの部分を「動かさざる幹」と考えるか「移り行くべき枝葉」と考えるか……その数の多寡に応じて改正の是非が決まっていくのかもしれない。
ドイツは実際的である事を選んでおり、日本は今ここまでは現実を切り捨ててでも理想を選んできた。
これ以上の「現実の痛み」に、果たして日本はこのままで耐えられるのか? 不条理な恫喝外交や傍若無人な他国軍駐留を受け入れ続けるのか? 「敵意からは国民を守りません」と明記された憲法をそのままにしておくのか?
アメリカ等他国はおろか、国連へすら自力では救援できぬ自衛隊。国民を守って来れなかった憲法9条。自国の憲法に手を触れる権利を事実上未だ持たぬ日本国民。etcetc....考えるべきはいくらもあろうと思う。
ひとまず、議題としては以下を考えている。
○日本国憲法はどこまで、何を変えてよいか? いけないか? またその根拠は?
○ドイツの「闘う民主主義」に対して、日本の「闘わぬ民主主義」「他国の敵意からは国民を守らぬと宣した憲法」。
このままでよいのか? 過去の惨禍の再来を防ぐ最善手なのかどうか?
まずは上を進めていき、その流れで自然と下の議題にも移れるのではないかと思う。
まずはゲスト殿のご到着を待つが、詭弁や虚言なく真摯なる論をもって参加していただけるものであれば、どなたのご意見・ご批判も是非いただきたいところである。
まずはひとつの試しとして、お付き合いいただければ幸い。

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