前回記事
「owain氏とのやりとり・まとめ(南京問題編)」の残部分を近日提示すると言いつつ、1ヶ月以上置く事になってしまった。
私事で少々多忙だったとはいえ、言行不一致で赤面の至りである。もしも記事の続きを待っておられる方がいたならば、誠に申し訳ない。
旬も外しているしあまり前置きする意味もないので、早々に続きへ。
・へぇ〜。南京での出来事を「(継続的に問題にはされない程度の)不法行為」って書いたのは、私?
引用された発言は、owain氏の「定義」を受けて私が確認的に記した表現である。
少なくとも、「新しい問題があれば、そっちを非難するのが当り前でしょう。それで?」と先に書いたのはowain氏自身である。(「戦後までほとんど国際的話題にされなかった理由はいかに?」という私の質問への回答として例示したのだから、「ずっと抗議され続けない事件」→「その程度の大した事はない事件」という認識はowain氏の説にこそ補強される)
また、「(継続的に問題にはされない程度の)不法行為」という表現は私の個人的認識ではない。戦時中の南京報道に関する客観的事実である。
同時に、「プロパガンダが実際の事件の規模よりもその事件の扱いをより大きく広げる」ことも現代の情報レベルでは(特に南京問題を知る者にとっては)常識であろう。
その人間から、
・「国際的に非難を受けた事件、国連で非難された事件、それは、おそらく大事件なんだろう」(只のプロパガンダじゃなけりゃだけど)、それぐらいは、わかるよ。
だけど、どんどん変化していく国際情勢の中で、「ずっと抗議され続けない事件」→「その程度の大した事はない事件」なんて理屈が、一般的な現代史を理解する上で、有効な指標だとマジで思いますか?
という質問(6/29)を「私に対して」向けてくるのはどういう心境か。
「事実関係すら各説に争いがある」ほどの事件で「継続的な抗議が(並立さえせず)されなかった」ものが、客観的に「大した事」のある事件なのか?
ましてチベットや東トルキスタンのような「外国人も入れず、当局が情報統制して住民の意思が国外に出せない」中での虐殺と比較して「外国人も情報発信でき、当の中国人が国際連盟などで現地被害に対して非難できる」状況である。こういった比較でも明らかなように、単に抗議の期間の長短の話ではないのだが、owain氏には理解いただけなかったものであろうか。
そこはさておき、この先になってくると、「内容についてのやり取り」ではなく「言葉尻についてのやり取り」へとねじ曲がり、変遷していく。
「南京での出来事が当事者から継続的に批判されなかった原因」について「不法行為の規模が戦後プロパガンダとはかけ離れた小規模だったため」vs「新しい問題(重慶爆撃?)批判を最優先・南京を後回しにしたため」という、私とowain氏の説の対立点に関するさらなる議論がまったく進まなくなってしまった。
「新しい問題」については、ついぞ客観的に納得の行く具体例は「重慶爆撃」を除き得られなかった。また、それにより「南京」批判を国民党が控えた(並立しなかった)理由についても正面からの回答は無かった。とても残念な事である。
再び7/3、2時のコメントに戻る。
・自分の質問を改竄するのは自由じゃない。「報道の大元が伝聞であるのをどう思うか?」という主旨の質問を、1回目、2回目・・・とそれぞれ、どこで質問した?
・はぁ?私がいつそんな事(元ネタたるベイツ証言他を「確度の高い証拠」だと考えている)をいった?
ついに「内容への指摘」ではなく「言った言わない」へと反論が切り替わった。
「当のイギリスでの記事そのものも「伝聞記事である」という客観的事実について。貴方はいかがお思いでしょうか。」
「「見た」という証言と「見たという話を聞いた」という証言、等価ではありますまい……と言いたいだけです。他の傍証との照合はどちらも必須にせよ、前者と後者ではその単独での信憑性に差がある。それについてどうお考えか、とお尋ねしたわけです。」
「私は一貫して「証拠のろくにない伝聞や矛盾証言から拡散し公的に持ち出された事件」についての疑義として南京虐殺関連の話をしています。だから何度も「報道の大元が伝聞であるのをどう思うか?」とお尋ねしていたのですがね。」
「もちろんイギリス報道の元ネタはベイツ証言のみという事はないでしょうが、「ベイツ証言自体も伝聞」である事は客観的に事実です。それについての私の見解は、既に述べた通りです。」
すべて私のコメント欄での発言である。
「自分の質問を改竄するのは自由じゃない」というowain氏の批判が、細部への揚げ足取りでなく質問大意そのものへの指摘なのだとしたら、その指摘ポイントは上の私の発言のうちどれへの指摘だろうか。
無論、互いの言語表現の差により「「報道の大元が伝聞であるのをどう思うか?」という主旨の質問」として私が行なったこれらのコメントを、owain氏がそう認識しなかった可能性はある。とはいえ、それと「owain氏が内容についての議論を避ける」事との因果関係は私には理解できない。
owain氏は「この記事(「英国 南京ニ於ケル日本軍ノ暴行詳報」に例示されたもの)の元ネタ候補の合理的推定は容易ですから、その元ネタを検討すれば済む話です。」と述べている。あまつさえ、「英国 南京ニ於ケル日本軍ノ暴行詳報」そのものを「「諸外国も国民党も数万人規模の虐殺など報じていない」なんて、無茶な事を言う前に、もうちょっと基本的な事は勉強しましょうね。」という理屈で提示している。
これで、それら記事の元になった「亜米利加宣教師(例えばベイツ)等カ日本大使館及布教団本部ニ宛テタ書翰」、その内容の信憑性にowain氏が疑問を抱いているなら、それは私の見解への反論として矛盾してしまう。もしくは「書簡の内容の確度は低いけど、数万人虐殺報道の事実の動かぬ証拠だよ」という意図なのだろうか?
owain氏は記事の伝聞性につき「何とも思いません」と明快に述べた。
そして、宣教師の伝聞報告についても一切の否定的・疑問的評価はしていない。私が「実際の目撃ですらない伝聞」である事実を疑問視しているのとは、この場では真逆の姿勢である。
そして、結局「かの伝聞の確度をどう考えているか」は答えてくれなかった。きっと今後、直接質問しても答えてはいただけないのだろう。
ともあれ、「新しい問題」説、重慶爆撃、「とりつくろう」発言の見当外れ、宣教師伝聞への評価、あたりについて引き続き対論と疑問を提示した(7/3、18時)。
それへの返信が以下となる(7/3、23時)。
・「国際情勢に応じてそのつどネタは選択される」という私の主張のどこに、「判断基準」の類があるんだろうね。
その「国際情勢」が、「南京の事が「新しい問題」によって国民党自身による批判の俎上からも取り下げられた」という彼の新説なのだから、当然に「判断基準の類」=「新しい問題」という事になるだろう。
・何が「げぇっ」だったかは、読んでいる人はもうわかっているだろうから、この話はもう終わり。
終わってしまった。
もしも読者の方々で「げぇっ〜」の意図はこれこれこうです、わかります!という方がおられたら、ぜひこの記事のコメント欄かご意見投函箱へご指摘をいただきたい。
・重慶爆撃が「どれ程国際社会に批判の種として訴える力がある事例かどうか」についての貴方の個人的な感想なんてどうでもよくて、実際に『中国政府が(南京大虐殺よりも前面に出して)国際社会に訴えたかどうか』を調べないと、いかんのじゃないですか?
・もし、訴えたのなら、貴方が個人的に「批判の種として訴える力がない」と判断していても、訴えた、というのは事実なんですよ。
ついに「オレの出した説の証明をお前がしろ」になってしまった……
さしもの私もお手上げである。
繰り返すが、「中国も、(例えば)何回も国際連盟で非難するよりは、新しい問題があれば、そっちを非難するのが当り前でしょう。」と明確に断言したのはowain氏。私は「その「新しい問題」とは?」と問い、owain氏は「とりあえず「重慶爆撃」を調べてみれば?」と回答した。その結果、「南京の事をぱったり批判しなくなった理由付けとしては不自然である」として私が疑義をとなえるに至った。
そのあげくが上記レスである。評価については読者の皆様に一任したい。
・「見た」と「見たという話を聞いた」が等価かどうか、というのは新しい質問だと思っているらしいから
ひたすら一般論に逃げるowain氏。よほどベイツ証言についての評価を語りたくないらしい。
そして、最後には私に向けたのか自身に向けたのかわからない程の「総括」をしてくれた。
・貴方は、「継続的に非難のネタにならなかった」という事が、事件の質・量の大きさを示す有効な判断基準かどうかを、他の例も使って、検証していなければならない。
一定の基準になっていた他の事例(ベイルートやチベットの虐殺、固有名詞は出さなかったが「カチンの森事件」)を提示済みである。さらなる検証に進む前に「言った言わない」にシフトしてしまったので残念だが。
・少なくとも、常識的に誰もが認める、現代史でのスタンダードな判断基準ではないのだから。
事実関係の大枠について争いがあるかどうかで確かに変わりはするだろう。
捏造されたプロパガンダならば「実際の規模より報道・非難が大きい」し、秘匿された事件ならば「事件の規模が大きいのに報道・非難が少ない」、というように。
では、いわゆる「南京虐殺」はどちらに該当するのか? 発生当時に「秘匿」されていたか? 今は?
「常識的に誰もが認める」かはともかく(owain氏のような方もおられるし)、事件の重大性を判断するひとつの大きな基準である事は論を待たないと思う。
・全般的に、貴方は思い込みがキツイ。それが時々、とんでもない発言につながっているのに、全く気づかない。
つ「で、だから??」
つ「げぇっ〜」
彼の中では「間違った見解をわざわざ修正してあげよう」という親切心から来る苛立ちの発露なのかもしれないが、これら表現とそれに続く文脈に、「自己意見が何かのずれ・視点違いを起こしている可能性」の考慮……つまるところ「自己分析」の存在を感じ取る事はできない。
そこにあるのは「このタマネギ愛国者ってやつは馬鹿なことばっかり言いやがる、呆れるね」という一貫した姿勢である。
しつこいようだが、この件についての評価は他の読者の皆様に委ねたい。
当事者が出せる結論には限度があるし、ピックアップしただけでも互いに挑発的な言動が散見される。私も反省せねばならぬ。
なお、「栗原証言編」はさらに長い&意図なき質問の羅列なため、何より私の気力が尽きそうである。
もし余裕ができたら完成させ投稿したいと思うが、しばらくは息抜きエントリが続くかもしれない。ご容赦いただきたい。

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