今、私が暮らす、この「日本」という国。
他の多くの国々にも劣らぬ数奇な、そして決して短くなく濃密な歴史を持ち、今現在においても数々の評価と課題と批判を内外に背負う国。
そしてもちろんの事、私にとって唯一の「母国」。
政治・経済・外交・歴史……
あるいは思想・治安・道徳・伝統……
しがらみに囚われ、普段意識する事すら疎かになっているそれらを、我々日本人はもっと大きな枠で捉え、少しでも多くを消化し、理解しなければならないのではないだろうか。
記事さえも書けずに日々に忙殺される暮らしの中、ふとそのような事を考えた。
国内政治の様々な問題や長きに渡る政治不信、歪んだ経済バランスとそれを理解せぬ財政・税制の体たらく、北朝鮮拉致を始めとする敵性国家からの国民・国土防衛、アメリカに偏重せざるを得ない軍事同盟・国防の問題、左翼思想家に蹂躙された反動から混乱の極にある教育と家庭の現場、特定アジア礼賛のあまりに日本をその実質的・精神的属国にせんと企む各分野の著名人や一部有力マスメディア、等々……
打破せねばならぬ課題は多い。
現在が最善であるなどとは誰も思ってはいないはずである。
しかし、現在及び直近の過去を「絶対悪」とみなす一昔前の戦後日本人に逆戻りしてはならない。
現状から悪しきものを取り払うにあっては、代わりに持ち込む「次善」の対案とその具体策を。
良きものを継続するにあっても、「より次善」の維持策とその具体例を。
とかく目の前の事に反射しがちな悪弊を持つ日本人だが、それは翻れば「正しい方向性を与えられれば正しきを愚直に追う」という美徳でもある。
だが、目の前がそも混乱していれば目標を見失い、やがて悪貨が良貨を駆逐するであろう。すべての情報を均等に、完璧に分析できる人間などこの世に存在しない。
我々のような一個人にできる事は、それら情報の坩堝から「良くも悪くも」事実をきちんと抜き出し、評価して比較する事であろう。そして、それは日頃から大きな枠で(単なるネガティブな批判人にならぬよう)物事を捉え続けることから始まるのではなかろうか。
日本に何が必要なのか。
日本を弱らせているのは何なのか。
「対案を出さずただ批判だけ」という悪弊を日本人に植え付けた旧・社会党の悪しき政治慣例が今も日本人の多くを呪縛している昨今だが、特に日本人はグローバルな問題に直面したとき「現状批判に流れる」癖がある。
だが、その歴史においてグローバルな危機を救ってきた日本の偉人達は常に「現状をしっかり把握した上で、対案とその具体策をもたらし」てきた。
そのような少数の「偉人」も、日本社会そのものにそのような可能性が秘められていなければ生まれようもない。
己の希望する選択肢が目の前に無い、というだけで安易に現状の全否定に走るのはまさしく「破壊的革命思想」。一歩間違えば右翼左翼問わず単なるテロリストである。
まずは次善を採り、次に近い部分から徐々に声を上げ修正させていくのが国家というシステムに属する者たちの本懐であろう。
批判には根拠があるべし。
さらに対案があるべし。
そして、すべては「是々非々」にて一貫した評価を。
「自分は反○○、支持するあの人は親○○。
でも他の面ではちゃんとしてくれると思うから支持」
これは良い。
たとえ主張は部分的に合わずとも、他の面で是々非々が合うなら支持していく……というのは実に一貫した方向性である。
「自分は反○○、対立勢力の支持するのは親○○。
親○○は断固反対、絶対支持できない」
しかし、同時にこう述べたら台無しである。
「お前はどうなんだ」とダブスタを指摘され、あとはもうグダグダ一直線、物事の正当性も筋論も一貫性もあったものではない。
どれが何、現実のどの問題を指しての例えかはあえて伏せる。
そういう事象が己自身に見受けられないかどうか、(もちろん私も含めての事として)一度よく考えてみるとよいのではなかろうか。

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