政治談義においてよく言われる言葉がある。
「小泉政権によって貧富の差が拡大した」
=だから小泉は悪い、という論法ではある。(竹中を指弾する論法として用いられる事も多い)
私は常々「小泉内閣における景気対策は質・量ともに足りない」と思っている。その面では小泉批判の立場に立つものである。
しかし、いわゆる「反小泉」の諸氏とは結局道分かれになってしまう。その理由を自分なりにまとめつつ、「それでも小泉を支持する理由」を述べてみる。
(2005/11/25 追記)
唐突だが、現在の私は「
ポリティカルコンパス」(政治・経済における大まかなスタンス)で言うと「保守・政府介入派」に属するらしい。どちらもそれほど極端な傾向ではないが。
となると、「改革」を唱え「官から民へ」を標榜する小泉政治は私にとって受け入れがたい正反対の意向であるということになる。
では、なぜ私は小泉政治を受け入れるのか?
いや、経済政策についてはあまり受け入れてはいないのだが、まあ判り易く「許容している」というものとしよう。
なぜ自己の傾向と反対の政策を受け入れるのか? それは、2つの点に集約されるところである。
・「族議員」に大きくメスを入れた
・「実行力」をそれまでの何倍も発揮した
税金を地方に配分し、適切なインフラ整備を行うのを否定する気はまったくない。
しかし、いわゆる族議員とはそういった「適切な」配分に満足せず、己の掌握する影響力をもって他とひたすら綱引きにいそしみ、結果として富のアンバランスをもたらす害悪ゆえにそう呼ばれたはずである。「日本は唯一の社会主義成功国家」と揶揄される事があるが、族議員とはこの「社会主義的再配分」をすら捻じ曲げる存在であった。特権を行使(自由経済を阻害)して、自己集団のみへ利益をもたらそう(政府による再配分の阻害)とする、経済右派・左派双方から忌避されるべき存在であった。
「小さな政府」への志向は、私はこの「鬼子を切り離す」上で欠かせないプロセスだと認識する。いつまでも「小さな政府」でいてはならないが、今は副作用を甘受してでも病巣を取り除くべきであると。
また、小泉人気の少なからぬ部分を占めるのが「実行力を感じさせる言動」「やってくれそうな雰囲気」である。
あらかじめ述べておくが、これは「実行力」そのものを指してはいない。小泉にも「やれていない事」は数多いし、他の懸案とて物足りなさばかり残るものが多くある。
しかし、それらは「小泉だけができない/できなかった事」ではない。それまでは「やろう」という動きすらなかった、「誰もやらなかった/できなかった」ものでもある。
それだけでも、国民が「期待」をかけて様々な負担にじっと耐えている……そんな構図が、野党や反対勢力にはまだまだ理解できていないのだろう。せいぜい「小泉は人気だけはやたらあるからやっかいだ、手強い」くらいにしか考えていないようにも思える。
さて、上の2点には反論が容易にあると思う。
・「病巣を取り除く」前に日本が死んでしまう!
(または「日本に今の手術方法は適切でない!」)
・小泉は「やらなくていい事」ばかりやっている!
これもよく聞く論である。否定はしない。
だが、「手術すると死んでしまうからこのままで」というのは、聞こえはいいが国家運営という観点からはただの「逃げ」である。まして、「手術で死ぬか放置で死ぬか」の二択だとしても、それを選択するのは国民のはずである。
また、「手術方法が間違っている」というならば別の方法を具体的に示さなければならない。「間違っている」と指摘できるのだから、その根拠=別の病巣とその解決策、を同時に提示できなければ道理に合わない。
小泉が「改悪」をしている、だから止める必要がある(対案どうこうという問題ではない)、という意見もある。
だが、それはすなわち「以前に戻せ」という主張として受け取られてしまう可能性が高い。(というか実際にそうとしか受け取れない。対案がなく反対するだけなのだから)
そして、国民は「以前に戻る」のを極めて恐れている……これは上で述べた通りであり、議論が分かれる余地はあまりないのではなかろうか。
ゆえに、「改悪を止めろ」という「だけ」の主張は、広く受け入れられない事となる。食いつくのは反政府・反日の材料に飢えている昨今のサヨクばかりなり、である。
私は、現状での増税には反対である。国民生活がデフレとの双方向圧力で潰れかねないからである。
安全弁無き一足飛びの外資誘導にも反対である。ホリエモン騒ぎに始まったマネーゲームに見るまでもなく、日本のシステムには「違法スレスレ」の仁義無き経済バトルに抗するための準備が絶対的に不足だからである。
必要以上の緊縮財政にも反対である。無駄を減らした分は、今ただでさえ「足りない」場所に振り向けて適切に再分配すべきだからである。
しかし、私は小泉支持である。他に対案を出す者がおらず、といって元に戻るのはまっぴらご免だからである。
郵政民営化も全面的にではないが支持する。郵便サービスの地方格差が拡大する事は法的にもあり得ないし、郵貯や簡保の現有資産が国外に流出する事はほぼあり得ないからである。(国債運用中心ではなくなる=どこかで国際価格が下落するだろうが、ここのアンバランスな国債運用を10年ほどをかけてリセットするのは長い目で必要なはずである)
最後に一つ。
よく「小泉・竹中はアメリカに日本を売り渡す」「日本はアメリカの経済的奴隷にされる」と言い切る人達が最近多く(特に政治的右派サイドに)なっている。
60年前の事を思えば、その危惧はもっともでもあろう。
だが、私はそこまでアメリカを無思慮だとは思わない。
日本がアメリカに経済的に屈服すると、(その後の展開を仮定してみた場合)自動的にアメリカも共倒れてしまうのである。
「アメリカ外資が日本国債を握って日本政府を脅し付け言いなりにさせる」「日本経済を故意に破綻させてIMF管理下に置かされる」……末路として示された事があるのは大きく分けてこの2つだが、どちらを選んでも「アメリカは破綻を免れない」。
仮定に仮定を重ねた話なので証拠を出せ、と言われるとつらいが……パズルか詰め将棋みたいに想定を重ねていくと、私と同様の結論に達する人もいるのではないだろうか。
もし理論的に納得できる説明ができそうな目処が立ったら、いずれ話す事もあるかもしれない。
ひとまず、ここまで。
(追記:11/25)
大事な結論を書き忘れていた。失礼。
「小泉政権によって貧富の差は拡大したか?」
問題はここである。
そして、私の答えは以下の通り。
・貧富の上下差は確かに広がっている
・ただし、不景気によるダメージはどの層も受けている
・一部の富裕層が「勝ち組」化しているのはバブル前から同じである
確かに今、不景気により国全体が苦しい。
ゆえにお金に困る人々も増えている。
だが、ニュースに触れていればわかるように「大手企業の倒産も日常茶飯事」なのが現状である。下だけでなく上も苦しいのである。
「一部のうまくやってる奴らだけが抜け出ている」のは、別に今に始まったことではない。そのやり方が「お上の甘い汁にうまく乗る」事から「金の動きをうまく使って渡り歩く」方法に変化しただけ、とも言える。政治利権がマネーゲームに移行した、とも。
とはいえ、マネーゲームは一歩踏み外せば破綻の道である。
ある意味、それに特化した「才能」がなければ到底真似はできないだろう。ホリエモン達は、時代の徒花……突然変異なのだと思う。(楽天の三木谷氏のような、既存の利権との融合を図るケースもあるがそれも同様である)
人の触れ得ない特権を駆使して巨利を貪る連中には、激しい怒りを覚えるものだった。しかし、彼らマネーゲーマーにはそういう「怒り」はあまり感じない。(眉をひそめることは多いが)
そういう意味では、「貧富の差」が広がったとは思わないのである。元々「持てる者」と「持たざる者」とが時間ごとに差を付けられるのは仕方ないことである。人生ゲームのように一発逆転、というのはなかなか難しいのだ。
もちろん、私もまた「持たざる者」であるから、現状に満足などと言うには程遠い。己の努力の及ばぬ部分で不正があれば、それは容赦なく糾弾するであろう。
また、だからこそ小泉政権を支持するのではある。

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