16日、政府により「第2次男女共同参画基本計画」(平成18〜22年度)がまとめられた。
かの悪名高き「ジェンダーフリー思想」が紛れ込み惨憺たる家庭・学校崩壊の序曲となった(と、あえて断言する)男女共同参画計画であるが、小泉政権の選挙での圧勝からこちら、徐々に「ジェンダーフリー教育の異常性を再考しよう」「男女共同参画とジェンダー概念は別物である」という政策的な舵取りが表面化してきている。
当初は新規当選組に若手・ジェンフリ論者が少なからずいるなどと指摘され、反小泉的視点からは「これでますます日本社会の荒廃が進む」あるいは「小泉の最終目的は日本崩壊だ」などという意見までが出されていたが、どうやらそれとは異なる方向……ジェンダーフリーの跋扈を食い止める方向に、少なくとも自民党は大きく進みつつあるようだ。喜ばしいことである。
今回はこの時事ネタをベースに、今現在のいくつかの喫緊の問題について語ると共に……「安易な平等志向こそが差別を生む」という、私の持論について述べていきたい。
そもそも、男性と女性を純粋に「同じ存在」として認識している人はいるだろうか。いない、と断言してもいいくらい、これは愚問である。
生物学的な機能や生理的能力、骨格や筋肉のバランス、男女それぞれに独自性をもつ衣食住の文化や伝統、などなど……それこそ「種族的に人間である」こと以外、差異のある部分のほうが圧倒的に多いとすら言えるだろう。
そして、往々にして「男女平等」論のスタートは、「
男尊女卑」なるキー・ワードを前提として始まる場合が多い。いわく「男性は歴史的・文化的に女性を蔑み、下に見てきた」という論である。
確かに、世界の歴史を遡るとき、そのような時代や文化が少なからず存在した事は否定できない。
政治の頂点に立ったとされる女性は男性に比べて少ないし、平均的肉体能力において男性に遅れを取るがゆえに、力に重点が偏る乱世となると女性は弱い立場に立たされる事も一再ではなかった。
果てはそれらを意識して「女性を守ろう」という動きが男性側からあっても、「それが男の傲慢だ」と反発するまでに至る。決して後天的なもののみが原因ではないため、こじれると非常に解決が至難な問題であると言えるだろう。
しかし、ここで「だから男女は平等に扱うべきだ」から一足飛びに、「ジェンダー=社会的性差による差別から女性は解放されるべきだ」という救済主義たるジェンダーフリーの思想に飛んだ場合、極めて危険な現象が起こる。
そもそもの出発点が「男尊女卑への対抗」であるから、原則として男性が悪く女性は優遇されるべき、となる。よって男性の領域へ女性が入り込むのは善で、女性の領域を男性が侵食するのは悪となる。
結果として、女性の心理から「
男性を軽んじ、否定する」傾向が生まれ、逆に男性には「
女性を避け、疎んじる」傾向が生まれる。互いを理解することをやめ、相容れぬ存在とみなす。「
差別」が始まる。
そうなると、究極的には生物的に子孫を残すため必要な「つがい」を組むための意思疎通に障害が生まれる……そんな話も、容易に想像が付く未来図として見えるのではないだろうか。
簡単に言えば、ジェンダーフリーは「子孫を減らし、種を途絶えさせる」思想であると言ってしまってもよい。少子化の主原因と言っても別段大げさではないと、私などは考えている。
男女平等、と安易に訳す事の恐ろしさがここにある。
では、「男女平等」はよくない事、有害な事なのか?
もちろん、そんなことはない。
「ジェンダーフリー」と「男女平等」は異なる概念であることを、まず理解しなければならないだろう。
ジェンフリとは、すなわち「男女を区別し、場合分けする」あらゆる概念を否定する「社会的性差からの解放」である。極端に言えば、「男性である」「女性である」という認識を表出させ判断・意思決定する事そのものを否定するのである。例外は「女性は被害者である、守られねばならない」と主張する時のみ。(それまでの損害の埋め合わせ、という認識であろう)
男女平等とは、すなわち「男女それぞれである事を理由にした機会の不均衡を解消する」というものである。一見同じように見えるが、本質がかなり異なる。
例を挙げよう。
「男子禁制」
ジェンフリにおいては否定されるものである。(まれに「それによる女性の保護」という理屈で許容される事もある)
一方、男女平等の概念においては許容される。なぜなら、対抗して「女子禁制」を作ることができるからである。そこに機会の不均衡はない。
ただし、この両者の片方が保護され片方が迫害される(必然性なく)……などの社会的現象が起きればそれは不平等となり、是正されねばならないものとなる。ここに至って初めて「差別」となる。それまでは単なる「区別」である。(ジェンフリは区別すらも認めない)
たとえば皇統断絶問題……そもそも天皇家のシステム、についても似た事が言える。
男系限定の継承は原則的に「差別」ではない。なぜならば、歴史的には男系男子も男系女子も等しく皇位に就けるからである。女系であれば男子であろうと天皇になる資格を得られない。(周知の通り、現在は不可能。その意味で、明治以降の皇室典範は「差別」をしている状態といえる)
「いや、それは「女系差別」だ」という向きがあるかもしれないが、それは無意味な論である。男系と女系を比較して男系を優先したわけではなく、単に「初代が男性であり万世一系を男系で連ねたから」男系を維持しているに過ぎない。仮定の話だが、この世に他に「女系の万世一系」で同程度の年数に渡り連なる系譜がもし存在したら、それは天皇家と等価値に尊重されるべきものである。そこに優劣はない。
だから同様に、「女系じゃないから差別だ、女系を導入して両系に変えろ」というのはまさしくジェンフリ発想、
「お前が男なのは女性差別だから、男として生きた年数分だけ女に性転換して生きろ」と言っているに等しいのである。
極端な例ばかり挙げて恐縮だが、私の言いたい事はそこに集約される。
男性と女性にはそもそも「差」があり、それは先天的なものと後天的なものと両方ある。
後天的な根拠によって必然性のない格差を付けるのは「差別」であり、そういったもので「機会」を奪ってはならない。しかし、先天的なものを拒絶して互いの「差異」を無理矢理に埋め、結果として男女がその「差異を理解」できないよう仕向けるのは極めて危険なことである。
ジェンフリ思想によって女性の権利を守ると主張する連中に限って、女性自身が男性に「己の不足部分を補ってもらう」行為すら否定し攻撃する事も多い。(「そういう女が男を付け上がらせるのヨ!」というやつだ)
だが、その逆(男性が女性に己の不足部分を補ってもらう事)も社会を見渡せばたくさん存在するケースである。もちろん、男女ともに「補完でなく依存」したり「立場を利用し必要以上を押し付け」たりする者も少なからずいるが、それは「男女差別」とは根の違う問題である。男女差別の振りをした(あるいは口実にする)、単なる「自我肥大トラブル」である事の方が圧倒的に多い。
まあ、もちろん「自我肥大の結果として女性を蔑む」男性が少なからず逆より多いのは事実だが。(特に隣国に(!)
相変わらず言いたい事がよくまとまらずに終わる。
要するに「ジェンフリ至上主義者は重度の男女差別主義者である」ということが言いたかった。
真の男女平等主義者は、男女の差異を尊重し相互理解させることに尽力するものである。住み分け、役割分担、譲り合い助け合い……ジェンフリにそういう概念は無い。
「差を識り、譲り合い助け合う」。
これが男女平等の真髄である。
この真理は、人間が人間としての知恵を手に入れた時代から変わることの無い、そしてこれからも変わらない真実であり続けるだろう……
私は、少なくともそう信じている。

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