私はミステリーが好きで、特に新人の登竜門である「江戸川乱歩賞」の受賞作品は毎年読んでいる。平成17年度は、薬丸岳の「天使のナイフ」、平成16年度は、神山裕右「カタコンベ」。それ以前では、福井晴敏の「12−トゥエルブY.O.」、藤原伊織の「テロリストのパラソル」、桐野夏生の「顔に降りかかる雨」、真保裕一の「連鎖」、東野圭吾の「放課後」、高橋克彦の「写楽殺人事件」など「乱歩賞」受賞後、直木賞なども受賞し、ミステリー作家として活躍し続けている人がたくさん出ている。
さて、江戸川乱歩である。本名は平井太郎。
明治27年(1894)現在の三重県名張市本町にて誕生。
明治28年(1895)父繁男が鈴鹿郡役所転勤し、亀山に転居。
明治30年(1897)父が東海紡織同盟会書記長となり、名古屋市葛町に転居。
明治31年(1898)乱歩は名古屋市白川尋常小学校に入学。父は名古屋実業界の巨頭、奥田正香の知遇を受け、名古屋商業会議所に勤務。名古屋市南伊勢町ぬ百二番戸に転居。
明治33年(1900)名古屋市栄町電車通に転居。
明治34年(1901)名古屋市南伊勢町二番戸に転居、この家で12年間を過ごす。父は奥田正香商店の支配人を勤める。
明治37年(1904)父は奥田商店勤務のかたわら、自宅に新しい玄関を設けて特許事務所を開設、出願代理事務を行う。
明治38年(1905)乱歩は名古屋市立第三高等小学校に入学。
明治40年(1907)乱歩13歳、愛知県立第五中学校に入学。(第五中学はのち熱田中学となり、現在は愛知県立瑞陵高校)乱歩は第五中学第一回生。明治41年(1908)父は奥田商店を辞し、店舗を借りて平井商店を創設。機械の輸入販売と据付、石炭販売、アスファルト工事請負、外国保険会社代理店などを営む。
明治42年(1909)年末、乱歩みずから印刷して雑誌「中央少年」明治43年正月号を発行。乱歩は巻頭冒険小説「怒濤」と画物語「悲しき思出」を発表。奥付の発行所は、名古屋市中区南伊勢町一丁目二番地 平井商店内 少年会本部。この雑誌発刊について当時の級友本荘実は「旧校舎時代備忘録」で次のように記している。
『或る日、彼の家へ行くと明倫中学生だつた丹下といふ少年が居合わせてゐたが、平井太郎が云ふのに三人で一つ探偵小説を作らうぢやないか、そしてそれを印刷して小学生に売ることはどうであらうかと。それで忽ち賛成して、さつそく三人合作になる変なものを作り上げ、それにどんなものだつたか写真版まで挿入してゲラ刷のやうなものを作つた。活字を買つて来て印刷したものであつたか、何処かの印刷屋に頼んで刷つてもらつたものであつたか今判然しない。それを各小学校の退校時間を見はからつて門前に待つてゐて小学生達に売つたものである。その時の事である。平井太郎はそれの広告を自分で書いて、そいつを電柱だの小学校の塀だのへ、ベタベタ貼りに廻つたものである。彼が糊の皿を片手に持つて処かまわず広告を貼るので、私はハラハラした。そんな事をすると巡査に叱られはしないかと思つたのである。(現在の様にその頃は街にポスターを貼るやうな事はしてはいなかつた)然し彼は平然として貼つてゐた。私は一見甚だ穏かなこの美少年が、街頭に於けるこの勇敢なる行為を驚異の眼で眺めたことを憶えてゐる。』(「熱田中学校創立三十周年記念祝賀協賛会紀要」昭和13年、五中会)
この年 健康診断で心臓が弱いことが判明、遠距離通学を避け、学校内の寄宿舎で生活することになった。

江戸川乱歩

昭和30年に建てられた江戸川乱歩生誕地碑

うつし世は
ゆめ
よるの夢こそ
まこと 亂歩

『江戸川乱歩(本名平井太郎)は明治二十七年十月二十一日 当時 名賀郡役所の書記であった平井繁男の長男としてこの地に生れた大正五年早稲田大学を卒業 同十二年処女作「二銭銅貨」を発表爾来多くの傑作を著わして日本近代探偵小説を創始しその分野を確立した』

愛知県立第五中学校

明治41年 後列右乱歩、父繁男、一人置いて母きく。

乱歩の自画自刷の少年雑誌「中央少年」明治43年1月号

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