荷風は東京高等師範附属中学に進学する。父久一郎は、明治30年(1897)勤めていた文部省を辞し、日本郵船に転職し、上海支店の支店長となった。父は中学を卒業する荷風に一高から帝大への道を示し、官途に就くことを強く奨めたが、荷風は一高入試に失敗する。一時、母恒と荷風ら一家も上海に赴くが、まもなく日本に帰り、荷風は高等商業附属外国語学校清語科に入学することとなった。しかし、学校になじめず授業に出なくなり、結局除籍されてしまう。
この頃の荷風は母恒の溺愛のもと、江戸文化に傾倒し歌舞伎作者にあこがれるような奔放な生活を送っている。しかし、漢学をよくし漢詩人でもあった父久一郎には、その軟弱さが耐えられなかったようだ。上海から日本に戻り、横浜支店長となった父は、明治35年(1902)牛込区大久保余丁町に敷地約千坪の屋敷を得て転居した。
明治36年(1903)荷風24歳の時、父の勧めで実業を身につけるためアメリカに遊学した。明治38年(1905)には、父の配慮で横浜正金銀行のニューヨーク支店に勤める。翌年、父の斡旋でフランスのリヨン支店に転勤し、昼は仕事、夜は音楽会やオペラ鑑賞という毎日を送った。明治41年(1908)父の猛反対を押し切って銀行を退職し、日本に帰るまでの2ヶ月余りをパリで遊んでいる。
パリ滞在中に上田敏の知遇を得、帰国後は森鴎外らとも親交を深めて感性や表現力を磨いている。明治41年(1908)「アメリカ物語」を発表。明治42年「フランス物語」を刊行するが発禁処分となる。明治43年(1810)森鴎外・上田敏の推薦で慶應義塾大学文学科の教授となり、三田文学の創刊に携わった。
当時の荷風は、洋行帰りのハイカラな紳士で銀座や新橋の待合いに出没するようになるが、度重なる発禁処分や大逆事件に象徴される暗い世相に嫌気がさして、徐々にマスコミを避け隠遁生活に入っていくようになる。
大正元年(1912)湯島の材木商の娘、斉藤よねと結婚。大正2年(1913)父久一郎死去。斉藤よねと離婚。大正3年(1914)新橋芸妓八重次を入籍する。これが原因で末弟威三郎と絶縁となる。母恒は弟と同居。そのため母との間にも亀裂が生じる。大正5年(1916)慶応義塾大学を辞職し、大久保余丁町の自宅にもどる。邸内に一室を新築し「断腸亭」と名付ける。大正9年(1920)麻布市兵衛町(現港区六本木)に転居し、「偏奇館」と呼んだ。
2度目の結婚を解消したあと、荷風は気ままに町歩きを続けた。散策の対象は銀座や新橋から下町の深川・本所や荒川・中川、新開地の砂町・大島に移っていく。浅草のオペラ座を中心とした楽屋通いは昭和11年頃から始まる。当時「荷風に会いたければ浅草の楽屋へ行け」とまで言われた。
昭和12年(1937)母恒死去。弟との確執があった荷風は、母の死に目にも立ち会わず、葬儀にも出ていない。この間の事情は「断腸亭日乗」に詳しく書かれている。3月18日の日記に
「・・大久保の母重病の由を報ず。母上方には威三郎の家族同居なすを以て見舞いにゆくことを欲せず。万一の事ありても余は顔を出さざる決心なり。これは今日俄に決心したるにはあらず。大正七年の暮れ余丁町の旧邸を引払ひ築地の陋巷に移りし際、既にはやく覚悟せしことなり。余は余丁町の来青閣を去る時その日を以て母上の忌日と思ひなせしなり」
と記し、母恒の死を知らされた翌日9月9日には、日記欄外に朱書で母の事跡を記した後、次の二句を詠んでいる。
「泣きあかす夜は来にけり秋の雨」
「秋風の今年は母を奪ひけり」
この年、4月15日より「墨東綺譚」(墨の字にはサンズイがいる)を朝日新聞に連載し始め、8月には製本化され刊行される。
戦後、再び浅草の楽屋通いを始める。昭和27年(1952)選考委員の久保田万太郎の推挙により「文化勲章」を受章する。
昭和34年(1959)4月30日、千葉県市川市八幡の自宅で胃潰瘍のため死去(79歳)。孤独な死であった。

大久保余丁町での家族写真 前列右荷風、後列右母恒、父久一郎、弟貞二郎、その後ろ弟威三郎

大久保余丁町の「断腸亭」の荷風

斉藤よねと結婚(大正元年)

浅草ロック座での荷風

浅草ロック座での荷風(昭和26年)


左 レストラン アリゾナ.キッチンでの荷風
右 文化勲章受章の時の荷風

文化勲章受章(昭和27年)前列左より辻善之助(仏教文化に功績)熊谷留蔵(結核の臨床科学に功績)梅原龍三郎(日本画)後列左より安井曹太郎(肖像画)朝永振一郎(物理学)荷風

鷲津家と永井家の系図

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