永井荷風の母、恒(つね)は、尾張国丹羽郡丹羽村(現在の一宮市丹羽)にあった漢学塾「有隣舍」の鷲津家の長男で、儒学者として活躍した鷲津毅堂(わしづきどう)の娘として、文久元年(1861)江戸三味線堀(現在の台東区小島)に生まれた。毅堂は幕末、明倫堂督学(校長)となり、尾張藩の勤王思想を主導し、各地で活躍した。毅堂については、別稿で詳述する。恒は6歳の時、父の尾張藩勤務に伴い、名古屋に移り、新馬場(現在の西区樋ノ口町−名古屋城の西の堀端−)に居住した。名古屋の風習に従い、舞踊・茶の湯・習字の稽古に励み、能楽の鑑賞、春の那古野神社の祭礼などを楽しんだ。
11歳の時、明治政府に出仕した父に伴い、再び維新後の東京下屋竹町(台東区内)に移住した。東京での恒は、名古屋時代に引き続き、茶の湯・琴・長唄・舞踊の稽古に通い、14歳の時から英語学校にも通った。薙刀の手ほどきも受けている。まさに明治高官の令嬢教育に精進していたことがうかがわれる。
明治10年(1877)、17歳の恒は、父の門下生の逸材で、鷲津家に寄宿していた、9歳年上の永井久一郎と結婚した。久一郎は、尾張国愛知郡荒井村(現在の南区元鳴海町)の名家の出で、明治政府に出仕していた。
明治11年(1878)、恒はキリスト教の洗礼を受ける。牧師スピンナーを信仰の指導者として尊敬するとともに、洋風のマナーや西洋料理の調理法を学んだ。この年、長女が生まれるが夭折、翌明治12年(1879)、長男の壮吉(荷風)が生まれる。その後、次男貞二郎、三男威三郎が生まれる。
荷風は後に、その著『洋服論』の中で、
「(父は)役所より帰宅の後は、洋服の上着を脱ぎ、スモーキングジャケットに着替え、・・・・テーブルの上に白き布をかけ、家庭風の西洋料理を食しいたり。」「(荷風は)家で、西洋料理を食べ、洋服を着ており、お茶の水の幼稚園に通い、小学校時代は海軍服に半ズボン、頭髪を長目に刈ったので、異人の児よと笑われた。」と記している。
洋風的な生活の一面、恒は芝居好きで、役者絵を集める趣味も持っていた。日常、恒が琴を弾き、荷風が尺八を吹いて合奏をしていたという。このように後の荷風の作品に投影される江戸趣味、芸能好みの素地は、母の恒から学ぶところが多かったのである。
荷風は、母の強い影響の下、極めてモダンな生活の中に、江戸文学に対する憧憬を持つという、幼少から青年の時を送るのである。

左 左より荷風(壮吉)次弟貞二郎、母恒、外祖母鷲津美代
右 永井恒 42歳の時の写真

大久保余丁町での家族写真(右から末弟威三郎、次弟貞二郎、父久一郎、荷風、母恒)明治35年

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