市川房枝について記そう。
私が選挙権を得たのは、ちょうど70年安保の年だった。ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)や三派系全学連の活動がピークを迎えた頃のことである。60年安保の時ほどではないが政治の季節であった。その当時、金を使わない理想選挙の旗手であった市川房枝には、戦前からの活動の重みに加え、その清廉潔白な政治姿勢に圧倒的に共感していた。その後、市川は、昭和49年(1974)の参院選全国区で2位当選、次の昭和55年(1980)の選挙では278万票を獲得して全国区1位当選を果たしたが、翌、昭和56年(1981)多くの人々に惜しまれつつ、波乱に満ちた87歳の生涯を閉じた。
市川房枝は、明治26年(1893)中島郡明地村(現一宮市)の農家の三女に生まれた。 明治40年(1907)朝日尋常高等小学校を卒業し、翌年、単身上京、女子学院に入学するが7月に帰郷、郷里の小学校で代用教員となった。
明治42年(1909)岡崎にあった愛知県立第二師範学校女子部一年に補欠入学する。明治45年(1912)新設の県立女子師範学校に移った。新校長の良妻賢母教育に反発し、同級生28人とストライキをおこし28カ条の要求書を提出するなど、その後の市川の活動の原点となるような行動をしている。
大正2年(1913)女子師範を卒業し、朝日尋常高等小学校の訓導となった。翌年、橦木町に造られた名古屋第二高等小学校へ転勤したが、肺病を患い病気休職をして、知多半島の篠島で闘病生活をした。
大正6年(1917)教員をやめ、名古屋新聞(現中日新聞)の記者となって社会復帰をした。大正7年(1918)新聞社をやめて上京。働きながら兄の友人の山田嘉吉塾で英語を勉強、ここで平塚らいてうと出会った。
大正8年(1919 )「大日本労働総同盟友愛会婦人部」書記に就職するが、わずかの期間で辞職している。その後、平塚らいてうと「新婦人協会」を創立し、女子の政治参加を禁止していた治安警察法第5条の改正運動を展開し、改正に成功する。
その後、婦人運動・労働問題研究のため約2年半アメリカに滞在し、大正13年(1924)に帰国し、「婦人選挙権獲得期成同盟」を創立した。以後、婦人の公民権・参政権の実現・婦人解放の啓蒙・母子保護法制定などに活躍する。
敗戦後、直ちに戦後対策婦人委員会を結成した。一時は公職追放となるが、昭和25年(1950)「日本婦人有権者同盟」会長となり、以後その死まで参議院議員として議会制民主主義の確立をめざした。積極的に政界の浄化に努めながら、労働省婦人少年局の存続・売春防止法の制定・再軍備反対運動・国際婦人年の推進など、その活動はめざましく影響は大きい。
昭和48年(1973)朝日賞受賞。昭和49年(1974)マグサイサイ賞受賞。『市川房枝自伝』『野中の一本杉』など多数の著作がある。その活動の核となった東京代々木の「婦選会館」には、「市川房枝記念室」がある。

秋田記念館での東北婦人参政権大会(昭和6年)
最前列右から5人目が市川房枝。

早稲田大学婦人問題研究会での市川房枝(前列右より2人目)。

『市川房枝自伝』 『野中の一本杉』

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