東区は、文教地区である。藩政の時代から今日にいたるまで多くの学校が設立され、優秀な人材を生み出してきた。愛知一中、明倫中の旧制中学や、県一高女や市三高女、名古屋中学、金城学院についてはすでに記事にしたが、そのほかにも多くの学校が存在したし、している。すでに無くなってしまった学校も含めて出来る限り、この地区の学校を取り上げてみようと思う。まずは足下の山吹小学校から始めよう。
山吹小学校のHPの沿革史を参照にして、山吹小学校の歩みをまとめてみる。
ところで日本の小学校の始まりは、明治5年(1872)、明治政府の出した「学制」の施行にある。その「学制」の前文として告示された「学事奨励に関する太政官布告」(被仰出書)には、
『自今以後、一般ノ人民[華士族農工商及婦女子]必ズ邑ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス。人ノ父兄タルモノ宜シク此意ヲ体認シ、其愛育ノ情ヲ厚クシ、其子弟ヲシテ必ズ学ニ従事セイメザルモノナリ』
とあり、男女等しく近代的な学校教育を受けさせることを目標にした。
「学制」ではフランスの学校制度に習い、全国を8大学区、各大学区を32の中学区に、各中学区を210の小学区に分け、人口約600人に1つの小学校を設立するという現実離れした目標を立てた。
学制施行以前の明治4年(1871)、廃藩置県直後の名古屋県では平民の子弟を対象にした「義校」の設置が奨励された。この地区には、「第6義校」が鍋屋町の大光寺に、「第33義校」が飯田町の襌隆寺に設けられた。当時は学校建設の資金がなかったので、多くは寺院を学校とし、先生も僧侶や士族が務めることが多かった。
【明治5年(1872)】の学制施行後の移り変わりは、
【明治7年(1874)】大光寺内の「第6義校」は第1中学区第18番小学「時敏学校」に、襌隆寺内の「第33義校」は第1中学区第19番小学「成器学校」に改称。
【明治9年(1876)】襌隆寺内の「成器学校」は、大光寺内の第18番「時敏学校」を吸収合併して、第1中学区第19番小学「飯田学校」と改称。
【明治13年(1880)】「飯田学校」は、鍋屋町円明寺内に移転。
【明治15年(1882)】「飯田学校」は、東片端町に新築移転し、第19番小学「棣棠学校」と改称。この時、初めて棣棠“やまぶき”の名称が使われている。この難しい「棣棠」の字を使用したのは、当時の校長三浦義重、教頭朝岡直三郎が漢学に造詣が深く、その意見に従ったからだという(江碕公朗『山吹の歩み』)。現在の「逓信病院」の地である。
【明治20年(1887)】前年に発令された「小学校令」に基づき名古屋区「棣棠尋常小学校」と改称。
【明治28年(1895)】「棣棠尋常小学校」は、橦木町に新築移転。現在の「山吹小学校」の地である。
【大正12年(1923)】高等科を設置。棣棠、白壁、山口3校通学内の児童を収容し、「棣棠尋常高等小学校」と改称。
【昭和12年(1937)】「棣棠尋常高等小学校」は、高等小学校の教科を廃止。名古屋市「棣棠小学校」と校名を変更。
【昭和16年(1941)】国民学校令により、「棣棠小学校」は、名古屋市「棣棠国民学校」と改称。
【昭和20年(1945)】3月の空襲で校舎は全焼。
【昭和21年(1946)】「棣棠国民学校」は、同じく全焼した「白壁国民学校」を吸収合併し「山吹国民学校」と改称。、
【昭和22年(1947)】「学校教育法」の施行により、「山吹国民学校」は、名古屋市立「山吹小学校」と改称して今日にいたる。
「山吹小学校」校歌
青き み空に 山吹の
豊かにかおる 学びやに
清き すなおな 心もて
まことの道を 歩まなん
思えば 遠きむかしより
今も変わらぬ 花の色
きまり正しく ひたすらに
学びの道に いそしまん
(作詞 田中与司廼武 作曲 吉川 季吉)

山吹小学校正門

校章

正門のある校舎北側には、かなりの樹齢の桜が並木になっている。

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