三階橋の名前の由来は、1階が矢田川の下を流れる堀川の伏越(ふせこし)、2階が矢田川、その上にかかる橋が3階になるので三階橋である。
矢田川の上流は瀬戸の陶土地帯のため流砂が多く、用水に砂が流れ込むので、維持管理が難しく飲み水としても適していなかった。そのため、わざわざひとつ向こうの庄内川から導水したのである。その際、水路を矢田川の川床の下に掘って通した。それが伏越である。矢田川が天井川であったため可能となった工事である。
天井川とは、洪水を防ぐために堤防を築く→上流から運ばれた砂礫が河床に堆積する→新たに洪水の危険が生じる→さらに堤防をかさ上げする ということを繰り返したため、本来の河床面である周辺平野より著しく高い河床をもつ河川のことである。
延宝4年(1676)に竜泉寺下流から引き込まれた用水路は、矢田川の下に作られた木製の伏越を通り御用水路をへて堀川につながり、巾下用水に供給された。江戸時代の伏越は、長さ177m、幅2.7m、高さ0.9mであったそうだ。
明治10年(1877)に、黒川治愿により新水路が開削され、木曽川の水を新木津用水をへて庄内川に導水し、水分橋の「庄内用水元杁(もといり)樋」で取水した。現在残っている元杁樋は、明治43年(1910)に人造石で改築されたものである。
その構造はアーチ型で長さ30m、幅2m、高さ3mのものが、二門並列している。側壁、天井は切り石積み、周りの陶壁、護岸は人造石が用いられている。流す水の量に比べると異常に背が高いトンネルである。
これらは、舟を通すための特別な設計である。流れる水の上を通る舟の船頭の高さを考えてトンネルの天井は通常より高く造られ、壁の輪にはかつては通船鎖と呼ばれた鎖が取り付けられていた。トンネルの中では竿で舟を操れないので、船頭はこの鎖を引っ張って舟を進めて行ったという。
樋門の前後二箇所の木製のゲート(合掌扉と引上げ扉)により水量を調節した。
また、170mにわたる地下水路「矢田川伏越樋」の人造石による改築事業も始まり、明治44年(1911)に完成している。
人造石は、消石灰と種土(花崗岩の風化したもの、サバ土、マサ)を水で練り突き固めたり、叩きしめる施工法によって作られたものである。人造石工法は、明治から大正にかけ防波提、護岸、堰提など土木構造物に、コンクリートが普及するまで全国各地で採用されていたが、現在ではその遺構はほとんど消滅した。名古屋市内では、「庄内用水元杁樋」だけが現存する唯一の人造石工法による産業遺跡である。

現在の庄内川、水分橋頭首口

水分橋南の「庄内用水元杁樋」樋門部分

水分橋南の「庄内用水元杁樋」出水口部分

「庄内用水元杁樋」出水口部分の上部に埋め込まれた記念プレート

元杁樋内部 赤く印を付けた部分が壁の輪

「矢田川伏越樋」設計図

人造石で作られた「矢田川伏越樋」の記念プレート
人造石の伏越樋は、昭和30年(1955)に取り壊され、前よりも低い位置にコンクリートで作り直された。今の伏越は昭和53年(1978)、三階橋ポンプ所を建築する時に、作り直されたものである。

現在の「黒川樋門」 昭和53年(1978)、三階橋ポンプ所を建築する時に、作り直された。

「黒川樋門」の上から三階橋ポンプ所方向の水路。

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