「羊神社」に関連して、羊はいつ日本に来たかを調べてみたら、『日本書紀』に記述があることがわかった。
推古天皇即位七年(599)の条に、百済から「秋九月の癸亥の朔に、百済、駱駝一匹、驢一匹、羊二頭、白雉一隻を貢れり」という記述がある。
「駱駝」は「ラクダ」、「驢」は“うさぎうま”と訓がふられているが「ロバ」のことのようだ。「羊」はそのまま「ヒツジ」で、「白雉」は“しろききぎす”と訓がふってあり、「白いキギス(キジ)」である。
ざっと『日本書紀』に目を通してみたが、その後は「羊」の記載は見あたらない。このときの貢ぎ物の「羊」はどうも繁殖できなかったようだ。湿気の多い日本の気候に、羊の生態が合っていないようである。(朝鮮では、どうであったか、羊は飼育されていたのか、と疑問に思い調べてみたら、古代朝鮮ではどうも生贄の儀式用に宮廷で飼育されていたらしいということがわかってきた。ユダヤ教やイスラム教の犠牲祭の世界のようだ。)
推古天皇の時代は、聖徳太子の政治が行われた時代である。朝鮮半島では、新羅が強大化し、百済を圧迫し始める。聖徳太子は、新羅遠征軍を組織するが中断し、隋王朝に使節を派遣することで朝鮮半島を牽制している。607年の小野妹子の遣隋使である(『隋書倭国伝』には600年に最初の使節が来たことが記されている)。北の高句麗は、隋に攻められながらも持ちこたえ、その後、百済の地に勢力を拡大しながら南下してくる。この時期、新羅と高句麗の圧力に対抗するため、百済は日本に救援を求めながら、日本との関係を緊密にしている。
しかし、西暦645年の大化の改新後、660年のことであるが、百済は新羅によって滅ぼされてしまうのである。当時中大兄皇子(後の天智天皇)に率いられた日本は、人質として日本に送られて来ていた百済皇子豊璋を立てて、百済再興のための救援軍を差し向けるが、663年、唐と新羅の連合軍に朝鮮の「白村江(はくすきのえ)の戦い」で惨敗してしまう。この時、多数の百済人が日本に亡命している。
はたして、北区辻町の「羊神社」を創建した人たちが亡命してきた渡来人であったかどうかは全く不明というしかないが、「多胡の碑」の「羊」や「羊太夫」と称せられる伝説の人物は、明らかに渡来人であり、多くの民を率いて日本に移住をしてきた人たちと考えてよい。多胡郡の郡司に任命され、300戸をまとめたということから判断すると新たに大きな集団で渡来してきたことが推測され、百済滅亡にともなう移住であった可能性も考えられる。
ところで奈良時代には下の写真のような硯が作られている。一般には飼育されていなくても「羊」に対してかなり正確なイメージがあったようである。「羊」に対する信仰を持つ渡来系の集団がいてもおかしくないと思えてきた。

「羊形硯」 斎宮歴史博物館蔵
奈良時代の中頃のものとみられる須恵器質の硯で、頭部だけが出土。ほぼ同形のものが平城京の左京四条四坊九坪と右京八条一坊でも出土。畿外では斎宮跡のものが唯一の例である。背の部分が硯面であったと推定され、この硯は、平城京の復元例や中国の青磁羊形燭台などの造形を参考に復元されたものである。
早稲田大学に石の「羊」の像が残されている。イギリス人、エリザベス・ゴルドン夫人(Gordon,Elizabeth A.)によって寄贈されたものである。ゴルドン夫人とは1851年英国の名門に生れ、多年ビクトリア女王に女官として仕えた人で、仏教に興味を持ち、中国・朝鮮を調査研究した後、明治末期に来日。大隈重信夫妻を慕い、早稲田大学の名誉講師となった人である。帰国の際、その蔵書・仏画・掛軸等を早稲田大学に寄贈した。宗教・民族学資料を中心とするコレクションは洋書約1,500冊、仏画や器物など500余点に及び、朝鮮の義州で入手したという古代朝鮮で作成されたと伝えられる石の「羊」もその中のひとつであった。資料の寄贈あたり「学問の独立を標榜する大学で自由に同好の士の研究に資する」ことを望んだという。


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