ヨネ・ノグチは、志賀重昴(しげたか)の家に寄寓していた時、たまたま来客の菅原伝(後の政友会幹部)が北米事情を語っていたのを聞き、渡米を決意した。
その志賀重昴は、文久3年(1863)、岡崎に生まれた。明治7年(1874)、単身上京し、生年と同じ文久3(1863)に江戸の芝にできた英語・数学・航海・天文・測量等の専門塾「攻玉社」に入学した。その後、東京大学予備門を経るものの東大には行かずに、クラーク博士の志を受け継ぐ「札幌農学校」へ入学した。
明治19年(1886)、重昴は、ダーウィンに憧れ世界旅行を決意していたが、時の海軍大臣西郷従道に何度も掛け合い、軍艦「筑波」に乗船することに成功した。軍艦「筑波」は南洋諸島に向かい、謂わゆる「オセアニア」・・カロリン諸島、ニュージーランド、フィジー、サモア、ハワイなどを巡り調査研究を実施した。
明治20年(1887)に民友社の徳富蘇峰が発刊した雑誌『国民之友』に触発され、重昴は、三宅雪嶺・杉浦重剛とともに、翌明治21年(1888)政教社を起こし、雑誌『日本人』を創刊した。国粋主義に資本主義まで接木して、日本の開花とその意識改革を図った。
明治27年(1894)には、ランドスケープ論の先駆である『日本風景論』を出版した。日本の風景がいかに優れているかを書いた本で、日本人のナショナリズムをくすぐってベストセラーになった。その中で、日本は、(1)気候海流の多変多様なる事、(2)水蒸気の多量なる事、(3)火山岩の多々なる事、(4)流水の浸食激烈なる事、それ故に、日本の景色は優れていると述べている。また、わが国の風景の美しさを「瀟洒(しょうしゃ)・美・跌宕(てつとう)」で表現している。「瀟洒」とはすっきりしていて垢抜けしている様子をいい、「跌宕」とは、のびのびして雄大な形を表す。
その後もアフリカから南北アメリカ、インド、パキスタン、欧米諸国を漫遊している。合計42万km、地球十周にものぼる大旅行を行っている。
大正2年(1913)岐阜県可児市から愛知県犬山市にかけての木曽川を下った際、景色がドイツのライン川に似ていることから、「日本ライン」と命名している。また、大正9年(1920)大同電力の福沢桃介による大井ダム完成とともに美しい人造湖が出現したとき、志賀重昴はこの渓谷を「恵那峡」と命名した。
大正11年(1922)、チリのアンデス山脈の谷間で石油採掘の現場を目の当たりにし、「油の供給の豊富なる国家は光り栄え、油の無き国家は自然に消滅する。油断大敵どころか油断国断だ!」と看破している。
昭和2年(1927)没。
なお、岡崎市立郷土資料館には、志賀重昴の遺品、旅先で収集した品々600点が保存されている。東名高速・岡崎インターの近くの東公園に「三河男児歌」の碑文やゆかりの「南北亭」、志賀重昴の墓がある

右は、岡崎市・東公園にある銅像。

明治44年(1911)に東京の志賀重昴屋敷内に建てられた「四松庵」。昭和4年に現在の地に移築され、「南北亭」と改名した。

東天竺山世尊寺(所在地:岡崎市欠町天上田11)志賀重昴の発願により、没後の昭和4年(1929)に創建された寺。

志賀重昴の墓。昭和5年(1930)世尊寺境内地(当時)にストゥパ形式で建てられた。
*参考資料 読む・知る・発見 愛知人物館 「ミステリーは ぼくの夢」 愛知県小中学校校長会ほか編 愛知県教育振興会 平成17年

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