「何故、交流戦だとパ・リーグが強いのか?(19)」
NPB
さて、2004年を振り返るといっても、「SHINJO、日本ハム入団」だけで、前項が終わってしまったので、改めて、先日購入したパ・リーグBLUEBOOKを参考にながら、改めて時系列を追っていくとしましょう。
まず、1月1日、日本ハムが社名を「日本ハム球団(株)」→「(株)北海道日本ハムファイターズ」に改めるとともに、チーム名に「北海道」が冠されます。
同31日、近鉄球団が、チームの命名権(ネーミングライツ)を売却する意向を示します(が、後日、撤回に追い込まれます)。うーん、不穏。
さらに開幕後、近鉄にはさらなる悲劇が襲います。
5月17日、鈴木貴久2軍打撃コーチが急逝。まだ、40歳の若さでした。
その悲劇も冷めやらぬ中、6月13日、まさに「その時、歴史が動いた」一日を迎えます。
そこからはもう、怒涛のような事態は推移していきます。
一週間経った頃には、出資比率、フランチャイズ、保有人数、さらに1リーグ10球団制への再編に向けた動きが、まるで決定事項のように報道されるようになります。
この間、西武の堤オーナー(後のヨミウリの人は、当然別人)が、「西武、ハム、ロッテ、ダイエーの4球団で合併の話が進んでいる」と発言して、当該2球団のファンだけでなく、パ・りーグ全球団のファンに動揺が広がりまくります。
以前の項でも、触れましたが、そりゃ自分の応援していた球団が消えるだけでなく、その所属リーグ自体が消えていくなんてことになったら、いよいよ以て、その記録をも歴史の影へと追いやられていく、そりゃただ見てるだけのファンにとってもたまったもんじゃないでしょう。
現に7月時点での管理者はというと、「ああ、もう、(この形の)オールスターゲームは最後なんだなー」という感慨に浸っておりました。
そのオールスターゲーム。ちょっと最近のとは違う、かといって90年代までのそれとも違う、なんとも微妙というべきか、異様な空気の中での開催となったのですが、長野オリンピックスタジアムでの第2戦の3回裏、それもまた、あまりにも突然のことでした。
SHINJO、球宴史上初単独ホームスチール!!!
あまりにも突然のことで、テレ朝のカメラ(というか、Dのスイッチング)が追いかけ切れてません(笑)。
「MVPはボクのモノです」との事前の宣言通りにMVP獲得したSHINJOは、「これからはパ・リーグです!」と高らかにアピールします。こっから何年か経って、「これからはパ・リーグだ!」が東京ローカルの局で制作放映されるのは、また別のお話。
当初は、セ・リーグは一連の騒動には、ほぼ関係なく、そのオーナー企業・株主(読売グループ、毎日グループ、中日グループとフジサンケイグループ)は、あくまで外野の立場で事態の推移を見守る感じ、そのオールスター後、あのナベツネが、2リーグ制維持を支持する立場から「なんならパ・リーグに移りましょうか」なんて口走るから、とうとうセ・リーグ各球団も巻き込まれることに(その意味では、ある意味でパ・リーグ存続を後押ししてしまった人物と言えなくもない)。
8月には、アテネオリンピックにNPBからも選手が派遣され、銅メダルだったわけですが、たぶん、忘れている人多数(おい)。
そして、とうとう9月8日、オーナー会議の場において、オリックス、近鉄の統合を正式に承認。資本比率はオリックス8の近鉄2という形の「新設球団」の形となったことで、近鉄球団の消滅が確定となります。
選手、スタッフサイドに立てば、仮にこのまま球団数12→10となれば、自分たちの食い扶持にも影響するわけですから、そりゃ反対しますよね、普通。
選手会は「合併差し止め」の裁判を起こし、敗訴(9月3日)したものの、8月にはスト権を確立しており、さらに司法の「日本プロ野球選手会には団体交渉権がある」とのお墨付き的なもの(?)まで得たこともあり、9月18、19日には、ストライキを史上初の敢行します。
日本の歴史から見ても、これほどまで広範に支持を集めたストライキ、労働運動は、おそらく初めてだったのでは、ないでしょうか。なんたって、外野席には「スト熱烈支持」やら「闘争勝利」やら「要求貫徹」なんていう横断幕が出ていたくらいですから。
それで、「もう一つの合併話」というのも水面下で進んでいて、その最有力候補になっていたダイエーですが、もうこの時点で親会社はボロボロだったんですね。近鉄はもっとボロボロでsたけど。ところが、再建策について銀行サイドと話し合いを進めていく過程で、あくまでダイエーの本社としては自主再建を強硬に主張し続けていたことで、なかなかまとまらず(仮に産業債権機構が介入してくれば、球団保持がほぼ不可能になるから)、要は合併交渉どころじゃない状況に陥っていたことから、なんと「時間切れ」という思わぬ形で、第2の合併と1リーグ制移行は回避されます。
そして、減ってしまった1球団を穴埋めすべく、様々なすったもんだが展開されます。
この間、9月20日はSHINJOの「サヨナラ柵超え単打」(パ・リーグ略史にも掲載)、同29日には翌シーズンからの交流戦開始が発表されます。
長いこと経営に苦しんできた、パ・リーグサイドから悲願ともいえる交流戦でしたが、リーグ消滅の危機に際して実現の運びとなったというのは、なんと皮肉なものか(苦笑)。
確かに、セ・リーグ側からの一種の「救済処置」として、始まったというのは、否定しづらい話であり、「役目を果たした」から廃止したいという考え方も少なからずあるというのも認識しているんですけどね(それは、また後項に譲るとして)。
さらに30日には、もはや幻とされていた「白いボールのファンタジー」のCDが、前月にビクターの倉庫からマスターテープが発見されたこともあり、市販されプチヒットします。
なお、この年から「秋の風物詩」が始まり、この年は西武が優勝(当時はプレーオフ勝者が優勝球団)し、日本一にもなります。前回の日本一から12年振りでした。
そして、そのすったもんだの末、11月2日、楽天の新規参入が承認されます。
12月6日には、新生「オリックス野球クラブ(株)」が設立され、球団名も「オリックスバファローズ」となり、ついに近鉄球団は一度も日本一を経験することなく消滅します。
その後、分配ドラフトがあって、その前後も様々な修羅場が発生しております。
ついでに、前後して一場事件が発覚し、気が付くとナベツネ、クマを含め3球団のオーナーが引責辞任に追い込まれ、さらに別件でツツミオーナーも失脚(12月1日から星野好男代行)、楽天創設(12月1日付でミキティ就任)、ダイエー身売り(正式には、翌1月に禿就任)で1年のうちに6人のオーナーが交代するという前代未聞の事態も発生しております。
あまりにも他の騒動が大きすぎたが為に、すっかり影に隠れてしまいましたが、ダイエーがついに球団経営をギブアップし、ソフトバンクに身売り、クリスマスイブに承認されます。
ダイエーに関して言えば、球団というよりも親会社に関しては色々と思うところが……結局ね、中内●(●は工ヘンに刀)会長が、ある時期から消費者のマインドを見失ってしまったんでしょうねえ、ということに尽きると思います。PB(プライベードブランド)大魔王と自ら名乗り(たぶん、●ッコロ大魔王になぞられたんでしょうが)、一代で巨大グループを作り上げたのですが、「安ければ売れる」という考えから脱し切れなかったのが、悲劇の元だったと思います。ま、この辺の話は、長くなりそうなので、ここで打ち止めておきますが。
ああ、やっと次項で交流戦に突入できる(おい)。
(だから、つづく)

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