(基本的に選手名は敬称略です。)
前回、悲劇的な結末と表現しましたが、実際、当時なんて、ヘタすっとパ・リーグのスカウトなんて、なかなか相手にしてもらえなかったようですからね。
前回も触れましたけど、西武も必死だったんですよ。
当時、もうすでに黄金時代の入口まで来てましたけど、とはいえ、まだ球団を購入→福岡から所沢に移転して、まだ10年経って無かったということで、まだ、西鉄野武士軍団の名残というか、若干黒い霧事件の影がチラついていた時代でもありましたし、何せ84年オフには、全国区のスターだった田淵(幸一)さんが引退してましたから、次のスター候補を欲していたという事情も、1位指名という形になったのだと想像します。
そして、翌年の96年シーズン、果たして清原は、期待以上の活躍を始めるのです。
まさか、この年がほぼキャリアハイの成績になるとは、私も想像してませんでしたけど(苦笑)。
当然、当時、東は巨人、西は阪神、あとは名古屋圏では中日一辺倒だったマスコミも、まあ、多少は取り上げざる得ませんわなあ……。
そうそう、この年のオフ、落合博満三冠王がロッテから1対4のトレードで中日に移籍しちゃった(その時、代わりにロッテに入ってきた選手のうちの一人が、後に因縁の相手となる平沼定晴=現・中日用具係です)んで、ますます、清原の時代になりつつありました(というか、そうなるものだと多くの人が思っていた)。
落合移籍の経緯については、要は、基本線、有藤監督が落合キライ&ロッテが給料を払いきれなくなりつつあったで、おおむね合っていると思われ。なお、その際、最初に移籍先の候補となったのは讀賣だったみたいですが、交換相手で折り合わなかった模様。
主に近藤唯之ソースで非常なので怪しいですが、
ロッテ「原、中畑、江川、西本のうち2人+α」
讀賣「角か松本か篠塚+α」
あ、この件に関しては当時、むしろロッテのフロントの方が叩かれてました。
落合自体の評価も「パ・リーグだし」「セ・リーグでは未知数だし」という状況だったもんですから、その強気過ぎる(と当時は見えた)姿勢に批判が集まったものでした。
で、中日は中日で、どっちかつーと、「落合が欲しい」というよりは「落合を巨人に獲らせたくない」という消極的な理由が動機だったようですけど。
思えば、ロッテ球団の讀賣グループ、そして世間一般へ敵意を見せるキッカケになったのが、この一連の出来事だったような気がしてなりません。
ところが、というかなんというか、
この後、プロ野球界の神様の力でも働いたのか、パ・リーグには、その清原のライバル候補が入ってきます。(3へ続く)

0