旧パラを検証する187
第十五号 6
北村君のこと 扶桑鋼太郎
戦前から、いくたびか、愛棋家の間に切望されながら、実現をみなかった「全日本詰将棋コンクール」が「愛棋家による、愛棋家のための、愛棋家の」雑誌である詰将棋パラダイスによって、遂に実現されたことは、将棋史上、正しく画期的な慶事といわねばなるまい。
さて、その最高優秀賞たる「看寿賞」及び「長編賞」の「八分の三」を、かくいふ私が実は頂戴に及んだと申し上げたら、この原稿を先づ手にされる鶴田さんも、一寸驚かれるのではなからうかと思いつつ、この文を書き始めている。
「看寿賞」決定の内報が、鶴田さんから北村君へもたらされたのは、死去五日前のことであった。その時、「お母さん、看寿賞が来たら、これこれのわけで、これこれを扶桑にやりますからネ」とお話しあったそうで、先日、お母さんより強つてのお言葉があった。北村君が私にそれを託したわけも、よく承知出来るので、ともかくも一応お預かりした次第であるが、これに付いては、いづれ、もっと詳しく皆様に御報告せねばならぬと思っている。
鶴田さんから「北村君の回顧」をとのお求めいただいたのだが、同じ長期結核患者である私と北村君とは、所謂「同病相憐れむ」で長い間殆ど毎日のように文通もし、また会いもしていたのだが、実の処、私は北村君の作品をほとんど解いたこともないし、北村君の作品に付いて、お互いに語り合ったこともあまりなかったのだから、この回顧記も、故人に対し無礼のものとなるかも知れない。
小学校、中学校(東京の府立一中)、そして海軍の兵学校と、終始第一番の成績を通して来た秀才の君が、結核という直りやすくもあり、直りにくくもある病を得たのは、昭和十五年で、詰将棋創作は、その頃から始まっている。昭和十七年一月号の将棋世界に載ったA図は、初めて活字になった作品で、「日に何度も取出して眺めた」という彼の述懐は、作図者の誰もが、忘れることの出来ない喜びだったでせう。

戦前、戦後を通じ、雑誌に発表された彼の作品は、九十五局の多きはのぼっている。その跡をたどると、彼の作風の変化や、その時代時代の詰棋界の流行と、彼の作品との関係などがうかがわれて面白いのだが、ここでは省略する。
先年、雑誌が彼のことを、昭和の看寿とか天才とか、第一人者とか、書きたてた時のことだった。「君もずいぶん、エライ人にされた来たネ」と、冗談まじりに話しかけたところ、「故酒井桂史氏や、今でこそ雑誌に投稿されていないが、往年の将棋日本や将棋月報で活躍された方々が、なおも、きっと陰では創作に精進されているであろうことを思えばかけ出しの私などは、全く恥ずかしい。」としみじみ語られたことは、本当に思い出深いことの一つである。
全く彼ほど、自己の作品に対し、謙虚で、常に反省をしている人は少なかろう。詰棋界に於ては、余詰、不完全作品が、いつも問題にされている。これは作品の仕上げに急のあまり検討をなおざりにするためであろう。作図作業が打ち切られると、すぐそれの検討を他人に委ねたがる人がある。しかし、検討こそ作図作業の重大な最終過程であることを知らねばなるまい。そして、そこにこそ、自己の作品に対する責任が果たされ、真の自信と抱負とが生まれてくるものと思う。
彼の作品とて、勿論、余詰、不完全品はある。しかし、この二、三年来、彼が実践し続けて来た「完全検討」こそ、近頃一段と彼の作品が冴えを見せて来た根源のものであろう。
「完全検討」とは−それは、その局面に於ける総ゆる王手順を、無駄手といわず無筋といわず、いちいち、末端の巨細にわたる変化手順まで、全部検討して行くことである。
全国の愛棋家を感激せしめた、あの名品「槍襖」も、かくしてこそ生まれたのだ。彼の枕頭に常に置かれた部厚い「検討ノート」には、十数頁にわたって、「槍襖」の検討が書き画かれている。しかも、鉛筆で記されたその上を、インクで一回、青鉛筆で一回、赤鉛筆で一回、少なくとも計四回もの、巨細にわたる検討がなされていたので。
不世出と謳われる木村名人が、昭和十三年名人登位直後のこと、文芸春秋誌上に、「彼が対局に於て、如何にして手を読んで行くかを語り、そしてそれを、自ら“成吉思汗の戦法”といっていた」が、北村君の「完全検討」こそ、これと相通ずるもので、まことに感慨深いものがある。
最近、病状も落着いて居り、更に「槍襖」以上の快作の完成を、期待し且つ信じていたのだが、ほんとうに残念で、残念でならない。只今着いたパラダイス誌七月号を見ると、「短編賞」候補作品のなかに、山岡棋閑坊作品(B図)が挙げられている。

稚気また愛すべき彼が、ほんの戯作を、彼の愛する甥の名をかりて、投じたものだったが、それが候補作の一つに挙げられようとは、私には微笑ましくもあり、また泣けてならないのである。(六月二十一日記)
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扶桑鋼太郎は故越智信義氏の筆名。越智さんが北村氏の看寿賞の賞金の一部を貰ったという話は、越智さんから直接お伺いした。この記事が後の「象戯九十九集」(北村研一著・越智信義編)に繋がって行くことになります。

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