昨夜は岐阜県恵那市にある父方の実家に帰りました。父にお願いしないといけないことがあり、またちょうど昨日恵那方面で打ち合わせがありましたので、そのついでに立ち寄りました。両親ともに相変わらずでしたが、正月に僕が帰省した後、91歳の祖母が足を骨折して大変だったようです。しかし、年齢にしては骨が丈夫だそうで、少しずつ快方に向かい、10日に退院。ゆっくりではありますが、杖を使って歩行できるまでになりました。良かった良かった。
残念ながら、実家ではゆっくりできず、朝8時過ぎには実家を後にし、現在大阪に向かう電車の中でこの記事を書いています。
昨日は大事な打ち合わせがあって、恵那方面に向かいました。僕にとって思い出の地。3年半に渡って通った都市。あの頃の思い出は今でも忘れられません。
そこは岐阜県瑞浪市です。それは僕がまだ関西で活動を始める前、今ほどの活躍(今もまだまだですが)をみせる前の2001年のこと。その3年後の瑞浪市市制50年に『歓喜の歌』、L.V.ベートーヴェン『交響曲第9番』の全曲演奏をしようと、瑞浪市と市民が立ち上がりました。合唱もオーケストラも市民による『第九』。僕は縁あって合唱指揮をおおせつかりました。
1年目は「とりあえず『第九』を歌ってみよう」ということで第4楽章だけを取り上げました。結果は大成功。次の年からは「本気で『第九』を歌おう」に変わり、2回第4楽章を取り上げるコンサートを経て、2004年12月に瑞浪市市制50周年記念『第九』コンサートを向かえ、大きな感動とともにこの『第九』プロジェクトはフィナーレを迎えました。
ここまでやってきた市民の力がおさまることはなく、翌年すぐに「みずなみニューイヤーコンサート」に結実しました。残念ながら、瑞浪と僕との関わりはここまででしたが、瑞浪の方々と一緒に過ごした時間は今でも忘れていませんし、「瑞浪第九」での経験は僕の大きな糧となり、合唱指揮者として今でも大いに役立っています。20代後半の良き思い出です。
われわれが種をまいた「みずなみニューイヤーコンサート」が継続し、大曲に次々取り組んでいるということを耳にし、非常にうれしく思いました。でも、僕を呼んでくれないのは寂しいとも思いました(笑)。しかししかし、中村貴志がこの度来年1月15日に開催される「みずなみニューイヤーコンサート」に再登場することが決まりました! しかも、今回は指揮者として! お話を頂いた時、飛び上がるぐらいうれしかったです(出演依頼のお電話を頂いた時は駅のホームだったので、飛び上がることはできませんでしたが(笑))。
昨夜は瑞浪に赴いて、僕が指揮させて頂く「みずなみニューイヤーコンサート」の打ち合わせ。瑞浪駅に降り立ったのは6年ぶり。あまりの変わりようにショックを受けました。6年という年月は長いですね。
打ち合わせでは懐かしい方々と再会できました。皆さん、全然お変わりない。うれしい。
今回の「みずなみニューイヤーコンサート」でも合唱とオーケストラは市民の手で作り上げられます。メインの曲目は佐藤眞混声合唱とオーケストラのためのカンタータ『土の歌』。混声合唱団スコラ カントールム ナゴヤの「創立10周年記念第5回定期演奏会」で取り上げた思い出の曲です。オーケストラ版を指揮することは二度とないだろうと思っていたので、めちゃくちゃうれしい! 瑞浪の方々と一緒に演奏するということでうれしさは倍増です。前半はオーケストラだけでJ.シュトラウスIIの喜歌劇『こうもり』序曲、P.マスカーニの歌劇『カヴァッレリア・ルスティカーナ』間奏曲、A.ボロディンの『ダッタン人の踊り』を演奏します。多彩なプログラムです。瑞浪の力、東濃の力を結集して取り組みます。瑞浪の皆さんと再び音楽できるのを心待ちにしています!
東日本大地震発生から1ヶ月が経ちましたが、大きな余震が立て続けにあって、被災者の方々は恐怖の中にいらっしゃることでしょう。また、福島原発事故の程度が最も危険なレベル7に上げられ、心配が増幅しました。不安をあおるわけではありませんが、事故発生当初からひどくなるだろうと思っていました。モニタリングをしていますが、実は誰も原発の中の現状を知らないし、知ることはできないのです。だから、今や行っている対処が正しいことなのかわからず、試行錯誤でやっているのは否めません。今回の地震の規模は想定外だったと言います。それはそうだと思います。自然災害は起きてみないと、その程度がわからない側面が多分に大きいですから、しかし、自然災害が発生して、その二次災害で命を危険にさらす物は本当に必要なのか、今回の事例で考えなければなりません。
一方で、被災者の中に前向きな方が増えてきました。津波で家族全員を亡くした女子高校生。「もう泣かないって決めました。そんなこと、家族皆が望んでないはずだから」と気丈に答えて、笑顔を作っていました。その笑顔は硬かったものの、瞳には前向きな力がみなぎっていました。同じく、津波で家族全員をさらわれた年老いた男性。「おれが生き残ったのには何らかの意味がある」。その表情は決して明るくはありませんでしたが、目には生きる覚悟が現れていました。復興への大きな力になるでしょう。まずは気持ちが大事。生き残った者が生きることこそ大いなる復興だ!