「S.オカザキ監督映画『ヒロシマナガサキ』を観る」
レヴュー
僕の名古屋の住処の近くにある映画館、
名古屋シネマテークで、
スティーヴン・オカザキ監督のドキュメンタリー映画
『ヒロシマナガサキ
WHITE LIGHT/BLACK RAIN
The Destruction of Hiroshima and Nagasaki
』
を観ました。
名古屋シネマテークは定員50名の小さな映画館。
しかし、商業ベースには乗りにくいが、
上質な映画を上映していることで
その名が知られています。
この映画の監督、S.オカザキは1952年にロサンジェルスで生また日系三世。英訳の『はだしのゲン』を読んで広島と長崎の原爆投下に関心を深めたS.オカザキは、1981年に初めて広島を訪れ、被爆者を取材した第1作『Survivors(生存者たち)』('82年)を発表。日系人強制収容所を描いた作品『Days of Waiting(待ちわびる日々)』('91年)でアカデミー賞ドキュメンタリー映画賞を受賞。
アメリカでは原爆投下が「太平洋戦争を早期に終わらせ、日米両国民の命を救った」との認識が強い中、S.オカザキは広島と長崎の事実を伝え、核の脅威を世界に知らしめることを自分の役目と考えるようになりました。
原爆投下から50年の1995年、米スミソニアン協会で原爆展が開催される予定でした。日本側の期待も大きかった。しかし、アメリカ国内の猛反対で中止になり、それに伴って、S.オカザキの映画製作も中止になってしまいました。それでも、彼は諦めることなく、取材を続け、2005年に体内被曝の現実にも迫った『The Mushroom Club(マッシュルーム・クラブ)』を発表、アカデミー賞にノミネートされました。
そして2005年、3000万人が契約している有料ケーブルテレビ局、HBOの依頼によって、S.オカザキは『WHITE LIGHT / BLACK RAIN The Destruction of Hiroshima and Nagasaki(ヒロシマナガサキ)』の製作を開始。今年完成し、広島に原爆が投下された8月6日に全米公開され、その後約1ヶ月に渡って、繰り返し放送されます。日本ではいち早く公開されました。
『ヒロシマナガサキ』の冒頭、日中戦争から太平洋戦争に至る日本の軍国主義の侵略の歩みが、当時のアメリカのニュース映画のモンタージュでまとめられています。広島と長崎の惨禍を語る大前提として、日本の軍国主義の歩みを提示するためです。当時のアメリカは日本をどのように見ていたかが浮かび上がります。同時に、現在のアメリカ人の、太平洋戦争と原爆投下についての常識でもあるのです。
タイトルのテロップが映し出された後、原宿での少年・少女へのインタヴュー映像になります。「1945年8月6日に何が起きたか知っていたら教えてください」。8人にインタヴューしますが、誰一人答えることができませんでした。
当初S.オカザキ監督は30人から40人にインタビューする予定であったと記者会見で語りました。そして、4割から6割の人が正解するだろうと思っていたと。しかし、誰一人答えることができなかった…
少なからず、僕はこれにショックを受けました。現在、日本の人口の約8割が1945年以降生まれ。太平洋戦争を直接体験した人が少なくなっているのが現状です。時が経るということはそういうことです。しかし、ここまで風化しているとは…現在の教育とマス・メデイアの無力さを感じました。
この映画の主たる部分を構成しているのは、14人の被爆者たち(広島6人・長崎8人)へのインタヴュー、広島への原爆投下に関与した4人へのインタビュー、そして、原爆投下とその後を記録した貴重な映像です。S.オカザキは大げさな演出を施していません。しかし、それゆえにインタヴューや当時の映像に生々しいほどのリアリティが帯び、原爆の恐ろしさに肉薄しています。
インタヴューの間に挿入される当時の映像は原爆の恐ろしさをモロに伝え、時には残酷過ぎて直視できないほどです。原爆が炸裂した瞬間、不気味に立ち上るきのこ雲、一面焼け野原の街、そこに転がる黒焦げの無数の死体、死体の山、大やけどを負った人々、口元が吹き飛んだ少年…しかし、目を逸らしてはいけない。これは現実に起こったことなのです。フィクションではありません。62年前の事実なのです。
この映画に登場する14人の被爆者たちはそれを目の当たりにした人々。口々に地獄絵図のような当時を語ります。そして、そのような極限の状況に置かれた人間の心理を語ります。中には大きな傷を負った被爆者も登場します。全身大やけどを負い、顔にもやけどの跡がありありと残り、皮膚の萎縮によって指が曲がったままの女性。顔の左側に大きな損傷を受け、左耳のない男性。胸部の右側と右腕の肉がこそげ落ち、やけどの跡も残っている男性。彼らはそこまでして、なぜカメラの前で語るのでしょうか。原爆の悲惨さを伝え、二度とこのような悲劇を起こさないために他なりません。彼らは言います。「このような悲劇は私たちだけで十分だ」と。
彼らの受けたのは体の傷だけではありません。心の傷も負いました。肉親を亡くして孤独になった人、または大けがや大やけどで苦しむ人の多くが自殺していったという事実をご存知だったでしょうか。当時、幼くして姉妹だけになってしまった女性が語ります。「私たち人間にはギリギリの時に、死ぬ勇気と生きる勇気と二つ並べられるんじゃないかと。妹は残念ながら死ぬ勇気を選んだんですけど。私は生きる勇気を選びました」。これは極限を体験した者にしか言えない、重い言葉です。
1945年末までに、広島では約14万人の人々が、そして長崎では約7万人の人々が原爆で亡くなりました。しかし、悲劇はそれだけで終わりませんでした。全く損傷を受けていない、健康だと思われた人々も含めて、原因不明の病気で次々と人々が死んでいきました。後に調査され、原爆が原因であることがわかりました。原爆症です。1946年以降、これにより16万人が亡くなりました。そして、生き残った広島および長崎市民はそれというだけで、原爆症が移る、結婚したら奇形児が生まれるなど、数々の差別を受けたのでした。
さて、この映画の特徴として、原爆投下に深く関わったアメリカ人へのインタビューが挙げられましょう。広島に原爆を投下した当日、爆撃機エノラ・ゲイに搭乗し、原爆をテストモードから作業モードに切り替えた兵器検査技師。ロス・アラモス原爆研究所で働き、長崎に落とされた原爆の起爆装置を開発した民間人の科学者。原爆の開発に携わった科学者。エノラ・ゲイの航空士。彼らは一様に「その当時は命令に従うだけ。原爆は戦争を終わらせる手段だと信じていた」と語ります。これに対して僕は怒りなどは感じません。戦争とはそういうものなのです。勝ったほうも負けたほうも大きな傷を負う。戦争に正義も悪もない。あるのは無益な破壊だけです。原爆投下に関わった者で喜んでいたのは誰一人いなかったと証言します。そして、開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったと。アメリカ人の原爆の生き証人は原爆の危険性と核戦争への可能性を語り、警鐘を鳴らしています。
現在、世界には広島に落とされた原子爆弾の
40万個に相当する核兵器があるといわれています。
そして、現在も核の拡散が続いており、
核の脅威はなくなるどころか、
ますます大きくなっています。
『ヒロシマナガサキ』を是非観てほしい。
そして、教育現場で取り上げるべきだ
と強く思います。
世界で唯一の原爆による被爆国民であるわれわれの中に
この悲劇を知らない者がいるということは
ゆいしき問題であり、
それを打開しなければなりません。
われわれ、日本人はパイオニアとなり、
核兵器廃絶と戦争根絶を訴えるべきです。
人類が62年前の広島と長崎で起こった悲劇を
繰り返さないために。
しかし、われわれは忘れてはいけません。
先の戦争で多くの人々を殺したという事実を。
その負債も清算してこそ、
真の平和が訪れるのです。