皆さん、『長崎の鐘』という歌をご存知でしょうか?
サトウハチローが作詞し、古関裕而によって作曲され、藤山一郎の歌でレコーディングされ、昭和24年、日本コロムビアから臨時発売されました。
古関裕而(1909-1989)福島県に生まれ、10代の頃から山田耕筰の作品を参考にし、日本語のアクセントを丹念に研究しました。後に山田耕筰に師事。昭和4年、バレエ組曲『竹取物語』がイギリス国際作曲コンクール第2位に見事入賞。翌年、それが新聞紙上で大々的に取り上げられ、山田耕筰の推薦もあって、日本コロムビアの専属作曲家となりました。その後、彼は類稀なヒットメーカーとして歌謡曲、ラジオやテレビのドラマの音楽、映画音楽、ミュージカルと幅広く手がけます。しかし、第二次世界大戦中、彼は軍歌や戦意高揚のための歌謡曲を作曲したのでした。
終戦後は、他者からその事で非難を受けるとともに、自らもその事を悔やみました。そんなある日、彼はサトウハチローから1編の詞を受け取りました。長崎の原爆投下により妻を亡くし、自らも被爆した長崎医大の永井隆博士の著書に想を得た『長崎の鐘』。古関は平和への願いを込めて作曲したのでした。
こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の 鐘が鳴る
召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の 鐘が鳴る
つぶやく雨の ミサの声
たたえる風の 神のうた
かがやく胸の 十字架に
ほほえむ海の 雲の色
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の 鐘が鳴る
こころの罪を うちあげて
更け行く夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の 鐘が鳴る
サトウハチローはいわゆる「さび」の部分を各番とも同じにしました。古関裕而は「さび」の前までを短調で、そして「さび」を長調で作曲しました。「さび」の部分で長調に転調するため、「なぐさめ はげまし」の意味が一層浮き彫りになり、希望の光が差してくるようです。単純な手法ですが、それゆえに、ストレートにわれわれへ訴えてきます。
僕が『長崎の鐘』を初めて歌ったのは、2005年7月3日、中村貴志プロデュース・シリーズVol.6「日本のうた大全 第3回〜第2次世界大戦後」でです。ミュージック・ステーション主催で「中村貴志プロデュース・シリーズ」は12回開催されました。その中でも、2005年6月12日から7月3日にかけて、3回に渡って開催された「日本のうた大全」は、強く印象に残っている企画です。
「日本のうた」を自分自身の重要なレパートリーにしてきた僕は、常々「日本のうた」をもっと体系的に勉強したい、それを披露したいと思っていました。2005年の6月に僕が三十路になることから、20代の集大成として、そしてそれ以降の自分自身の糧として、この思いを実現することにしました。2005年はちょうど終戦後60年にあたりました。僕は「日本のうた」を通して現在の日本を見直す機会にしたいと強く思いました。そのためには、いわゆる「美しい日本のうた」、あるいは名曲だけではいけない。タブー視されている、「日本のうた」の「暗」の部分もさらけださなければならない。そういう思いで、数多ある明治から昭和までの「日本うた」から100曲を選曲しました。もちろん名曲も歌いました。唱歌も、童謡も、芸術歌曲も、流行歌も、演歌も、歌謡曲も、ポップスも。しかし、特筆すべきは『君が代』と軍歌を歌ったことではないでしょうか。批判を覚悟で取り上げました。しかし、今後の日本を考える上で、現在国歌とされている『君が代』がどういう経緯で生まれ、そして国歌とされたのか、軍歌はなぜ生まれたのか、戦時中音楽はどのように扱われたのか、を知るべきだと思います。それらは歴史に存在しましたし、そして今でもしています。「臭いものには蓋」では本質的な解決にはなりません。でも、主催者である伊藤直樹氏はよくこの企画を承諾してくれたものです。
さて、僕はこの企画のために、日本の音楽だけではなく、日本国そのものの歴史も勉強し直しました。特に幕末以降の歴史を集中的に。そして、それと幕末から昭和までの日本の音楽史をリンクさせました。これは大変有意義でした。
その中で僕が一番関心を持ったのは、やはり戦時中の音楽のあり方でした。音楽家が国家に捕り込まれ、戦意高揚のために従事させられ、そして国民は軍歌や戦意高揚の歌謡曲を聴かされた。もちろんこれくらいのことは知っていました。しかし、そのやり方は凄まじいものです。第一次世界大戦後、国際連盟が結成され、世界は国際平和に向けて動き出したかに見えました。しかし、世界恐慌をきっかけにそれは崩壊していきます。日本にもその波は押し寄せ、軍縮を推進していた日本政府の求心力が弱まり、軍の暴走が始まりました。まずは何をしたか。あらゆるメディアを統制しました。その一方で、国家総動員法などで国民全員を統制します。戦争へと向かう、そして戦争へと向かってしまった国家を強制的に支持させられる、支持しない者は「非国民」とされるのです。その下に多くの音楽家が体制に取り込まれました。「音楽は軍需品である」と述べた政府に取り込まれました。地位や名誉、名声、時には生命を脅かすやり方で。全てが統制下に置かれ、意のままに操られる、それは恐ろしいことです。
僕は絶対に戦争反対です。しかし、僕は彼らのことを批判できません。僕は戦争を体験していないからです。戦時中の体制からの凄まじい圧力を経験していないからです。職や地位、名声、名誉、時には命をも奪われるかもしれない状況。その状況に僕が置かれて、圧力に屈せずに立ち向かうことができるだろうか…
数多くの問題がありつつも、そのようなことない現在の日本に生まれたことを僕は心から感謝しています。それは、その苦境にあえぎ、乗り越え、現在の日本を作った先人のお陰なのです。彼らの残してくれた素晴らしいものを護る、そして広めていくことが僕の使命です。
〜62回目の長崎の原爆の日に際して〜