大丸ミュージアム・梅田で開催されている展覧会、
「アインシュタインLOVE」を観ました。
相対性理論をはじめとする数々の業績によって
1921年度のノーベル物理学賞を受賞した、
20世紀最大の天才物理学者、
アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)。
彼が全財産を托した
イスラエルのヘブライ大学の協力により、
日本初公開となる「特殊相対性理論」の自筆草稿や
ノーベル賞の記念メダル、数々の手紙や写真など、
数々の貴重な資料が展示されていました。
はっきり申し上げます。
僕には物理学を理解できるほどの頭脳は
持ち合わせていませんし、
物理学に興味もありません。
まぁ、生活と関係することも多いので、
興味を持てばいいのですが、
目下音楽だけで精一杯です。
物理学の探求はその才能があって、
志のある方にお任せします。
では、なぜこの展覧会に行ったのか。
どの分野であれ、偉業を成し遂げた人物は、
当たり前ですが、才能があり、素晴らしい。
それゆえに偉業を成し遂げられたと言えます。
その人物の「人となり」を知ることによって、
僕自身が刺激を受けて、
自分の生き方に参考になること、
自分の人生の糧となることが多いからです。
この展覧会は僕(たち)に刺激を与える、
充実した企画でした。
「アインシュタインLOVE」では
アインシュタインを4つの視点から焦点を当てています。
Vector 1 アインシュタインの見た「ニッポン」
大正11(1922)年に来日したアインシュタイン。43日間におよぶ日本滞在で天才が感じ取ったわが国とは?
Vector 2 ありのままのアインシュタイン
生活観や恋愛観、天才を育てた環境を紹介しながら、アインシュタインの生き様を遺品や手紙を中心に展示。
Vector 3 科学者アインシュタイン
科学におけるアインシュタインの革命的な偉業を紹介。また、世界市民、平和主義者としての彼の精神、キュリー夫人やガンジー、ルーズベルト米国大統領などの交流についても紹介。
”?”から”!”への科学体験ワールド
アインシュタインの偉業の”スゴイ”を体験できるコーナー。
大正時代に一世を風靡した雑誌「改造」の発行所、改造社社長の山本実彦が中心となって、アインシュタインを日本に招聘しました。アインシュタインとその妻エルザは、数々の心配事はあったものの、夢の国、極東の日本へ行かれるということから訪日を決意。1922年10月8日、日本の郵船「北野丸」でマルセイユから日本に向けて出発しました。その航海の途上、彼はノーベル物理学賞が与えられるという知らせを受けました。11月17日に神戸港に到着すると、ノーベル賞受賞もあって、熱狂的に迎えられたのでした。アインシュタインは滞在中、多くの講演会をこなす一方、日本の人々や風土、伝統に接する機会も多く持ちました。アインシュタイン夫妻は日本に魅了され、その感動を携えて、12月29日、門司港から故国へと旅立ちました。
帰路の途中、アインシュタインは「荒城の月」の作詞者として有名な土井晩翠から賛歌「アン・デン・グロウセン・アインシュタイン」を受け取りました。そして、その御礼の手紙の中で次のように綴っています。
「日本がヨーロッパやアメリカから
文明的なものを受け入れようとするのは
それでよいが、
そのような表面的なものよりも、
自分自身の精神の方がもっと価値がある
ということを日本は知るべきです」
明治維新後、西洋的なるものを、その本質を見極めず、全面的、盲目的に受け入れた当時の日本(人)への批判であるとともに、日本(人)にも素晴らしいところがあるという賛辞でもあります。
このメッセージは現在のわれわれにも当てはまるのではないでしょうか。経済大国、先進国となり、さらなる国政的な貢献が求められる日本。教育基本法改正の論議の中で「愛国心」が叫ばれている日本。しかし、真の「愛国心」は、日本国が日本国を見つめ、日本人ひとりひとりが自分自身を見つめ、他国との違い(優劣ではない!)を認識し、日本のアイデンティティを確立して初めて、育まれるのではないでしょうか。そのためにはより深い国際交流が必要になってきます。しかし、国が違えば、常識も人の考え方も違ってきます。理解しがたい時もあります。それは仕方のないことだと思います。しかし、その時に相手を否定してはいけない。尊重するのです。もちろん、悪いことは「悪い」と言わなければなりません。
これは個人間でも言えることではないでしょうか。
アインシュタインは
「私は天才ではありません。
ただ、一つのことに
長くつき合ってきただけです」
と述べています。彼は通常とは違う脳を持っていて、普通の人とは頭脳が違います。彼は天才です。
しかし、僕が惹かれるのは、その頭脳ではなくて、一つのことに長くつき合ったということです。
僕は音楽と出会い、音楽を糧として生きてきて、そして生きていきたい。音楽を通して僕自身の生涯を確立すること、これが僕の最終の、そして最大の夢です。
「知識よりイメージの方が大切だ」
これも良い言葉ですね。
でも、凡人は間違えてはなりません。彼は知識は必要ないと言っているのではありません。知識を蓄積し、基礎を確立した上で、イメージの方が大切だと言っているのです。
凡人はとかく知識や常識に頼りがち、傾きがち。それを乗り越えたところに「新たな発見」、「新たな世界」がある。
音楽でも同じだ!
さて、この展覧会に行って一番良かった点は、平和主義者としてのアインシュタインをよく知ることができたことです。
アインシュタインはドイツ生まれのユダヤ人です。第一次世界大戦を経験したアインシュタインは超国家主義(インターナショナリズム)へと傾倒していきます。
その一方で、第一次世界大戦後、反ユダヤ主義が蔓延しつつドイツ国内でユダヤ人の尊厳を護るべく、公然とユダヤ人として行動するようになりました。
1932年にヒトラー率いるナチスが台頭すると、社会の状況は一変し、ユダヤ人への迫害が始まります。1933年、プリンストン高等研究所の教授の職を得ると、アメリカに亡命しました。
ナチスのユダヤ人虐殺が始まると、彼は「武器を取って、立ち上がるべき」という平和主義と矛盾する発言をします。
また、第二次世界大戦が始まり、ドイツが原子爆弾の開発をしていることを知ると、彼は1939年8月2日、レオ・シラードの要請を受けて、アインシュタインは、ルーズベルト大統領宛の原爆の開発を促す手紙に署名しました。アインシュタインはシラードが手紙を持ってきてから2週間悩みましたが、アメリカが原爆を開発し、ドイツより先にそれを持つことになれば、それが抑止力となり、終戦が早まると考え、署名したのでした。
1945年、ドイツの降伏が目前に迫った頃、原爆の開発に携わった科学者の中から、原爆の使用に反対する動きが出ました。大統領宛の原爆投下反対の請願書が作られ、多くの科学者の署名が集まりました。もちろんアインシュタインも署名しました。しかし、この手紙を読まないまま、ルーズベルト大統領はこの世を去ったのでした。
5月7日、ドイツが全面降伏。原爆の開発には到っていませんでした。ナチスが倒れ、原爆が開発されていないことに安心したのも束の間、悲劇は起きました。8月6日広島に、9日長崎に相次いで原爆が投下されてしまったのです。彼の愛する日本がそれによって甚大で悲惨な害を被ったのを知り、彼はとても大きなショックを受けました。
彼は原爆の開発を促す手紙に署名したことを正当化していたとも、悔やんでいたとも言われています。ただ言えるのは、第二次世界大戦をきっかけに彼の理想である超国家主義(インターナショナリズム)に立ち返り、真の平和を目指して行動したということです。
アイシュタインの偉業に感動した大阪府高槻小学校大塚分校の生徒たちが彼に絵を送りました(1944年に送ろうとしたのですが、大戦の影響で、その絵がアメリカにいる彼の元に届いたのは1949年のこと)。この返礼に彼は次のように記しています。
「国境を越えて兄弟のように
理解しあう態度が、
もっと広がりますように!
そんな思いで、
この老人ははるか彼方から、
日本の生徒諸君に、
いつか君たちの世代が私たちの世代を
恥じ入らせることを願って、
あいさつの言葉を送ります」
この言葉に僕の心は打たれました。なんと謙虚な姿勢!自分たちの世代があの忌わしい原爆を作ってしまったことを猛省し、自分たち、また自分たちの行為を否定することで、真の平和を願う強い思いが表れています。
さて、われわれは彼のこの願いを叶えることができたでしょうか。
否、と言わなければなりません。未だ戦争はなくならず、未だ核の脅威はなくならず、新たにテロの脅威にさらされています。
奇しくも、広島と長崎に原爆が投下された日が間近。アインシュタインの偉業を知るとともに、今一度深く平和を考える良い機会になりました。