4月14日(木)の夜から断続的に起こっている熊本地震で犠牲となられた方々に哀悼の意を表するとともに、被災された方々にお見舞い申し上げます。
この地震は阪神淡路大震災と同規模とのこと。東日本大震災から5年で、再びこのような大地震を目の当たりにするとは…。地震は予想がつかない恐ろしいもの。南海トラフ地震によって甚大な被害が出るであろう地域に住んでいる僕もいつかは被災すると覚悟を新たにしました。
現在僕はJ.ブラームスの『ドイツ・レクイエム』やG.フォーレの『レクイエム』、高田三郎の『水のいのち』、佐藤眞の『土の歌』に取り組んでいます。僕の人生観を変えられたアメリカ同時多発テロや東日本大震災、パリ同時多発テロに続くヨーロッパでの政情不安、熊本地震に直面し、これらの曲のメッセージがよりいっそう身にしみます。
『ドイツ・レクイエム』の第1楽章にはこのような詞があります。"Die mit Tränen säen, werden mit Freuden ernten. Sie gehen hin und weinen un tragen edlen Samen, kommen mit Freuden und bringen ihre Garben."「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰ってくる」。旧約聖書の史編126番の一部です。イスラエルの民は紀元前586年にバビロン帝国の侵略を受けて、首都エルサレムは崩壊し、多くの民が捕らわれの身となりました。その後、ペルシャ帝国キュロス王によって解放令が出され、イスラエルの民は喜びに沸いて故国に戻りますが、異民族に支配されてかつての面影はなく、さらに飢饉と病気が追い打ちをかけて人々は大きく落胆しました。しかし、将来への希望を持ち、この厳しい現実を乗り越えれば、喜びをもって大きなみのりを得られると信じ、故国の再建にあたりました。こういったことをこの歌詞は例えて謳っています。今は絶望の淵でも色々な困難を乗り越え、希望を持って突き進めば、必ず復活する。
フォーレの『レクイエム』はW.A.モーツァルトのものとG.ヴェルディのものと並んで「三大レクイエム」と称せられます。しかし、フォーレの『レクイエム』は死への恐怖をあおるような煉獄のおどろおどろしさを表現したセクエンツィア(続唱)を省略した点で、他の2人のものとは違います。フォーレは死の恐怖ではなく、死者への真の意味での安息を穏やかに美しく表現し、生きる者へも安息を与えてくれます。
高田の『水のいのち』の第5曲『海よ』に「ありとある 芥 よごれ 疲れはてた水 受け容れて すべて 受け容れて つねに あたらしくよみがえる 海の 不可思議」という歌詞があります。ありとある物事、感情を受け入れること。難しいことですが、今の世界に最も重要なのではないでしょうか。全てを受け入れたところから将来への道は拓けると僕は思うのです。
佐藤の『土の歌』の第三楽章『死の灰』は広島また長崎に落とされた原子爆弾の苦しみを歌っています。こういう曲は負の面が大きくて、正直に言って、取り組むのは精神的にきつい。しかし、取り組まなかればならない。いまだに原爆の脅威は続いています。歌詞には「死の灰の怖れはつづく」とありますが、東日本大震災によって引き起こされた福島原子力発電所事故も「死の灰」ではないでしょうか。この事故からわれわれは何を学び、地震大国である日本はどう進んでいくべきか、真剣に考えなければなりません。僕は原発反対です。予測のつかない地震によって予測のつかない大きな事故が起こり、甚大な被害を及ぼす可能性があるから。福島原発事故の後、日本は全ての原発を停止させましたが、再稼働が発表され、実行されました。しかし、原発が止まっていた間、日本は電力で困っていたでしょうか? 確かに東日本大震災発生直後は計画停電が実施されましたが、その後は実施されていませんし、極度の電力不足に陥ったという話は聞いたことがありません。この5年間でできたことがこれからできないということはあるでしょうか?