「「大阪シンフォニカー交響楽団第125定期演奏会」を聴く」
レヴュー
「
ベートーヴェンと世紀末ウィーンの知られざる交響曲」と題された演奏会が、
大阪シンフォニカー交響楽団の定期演奏会の中で2年間に渡って全4回シリーズで開催されます。当団の正指揮者、寺岡清高氏による企画です。どちらかというと演奏機会の少ないL.v.ベートーヴェンの偶数番の交響曲と、19世紀末の有名でない交響曲を組み合わせて、19世紀のウィーンにおける交響曲を検証しようという狙いです。ウィーン在住の寺岡氏ならではの企画と言えます。
今日は
ザ・シンフォニーホールにおいてこのシリーズの第1回目が開催され、聴きに行ってきました。
前半はL.v.ベートーヴェン作曲の『交響曲第2番ニ長調 作品36』。『交響曲第1番』ではいまだハイドンから脱却できずにいた感がありますが、『交響曲第2番』においてベートーヴェンは独自の様式を完成させました。第1楽章における長大な序章と終楽章の長大なコーダ、管弦楽法は後の彼の交響曲に通じます。寺岡氏指揮の大阪シンフォニカ交響楽団はそれらを浮き彫りにし、丁寧に仕上げ、素晴らしい演奏を披露しました。正しく名演でした。
後半はハンス・ロット(Hans Rott)の『交響曲第1番ホ長調』。
ロットは1858年生まれのウィーンの作曲家。'74年にウィーン音楽院に入学し、オルガンをA.ブルックナーに師事。'75年にウィーン・アカデミー・ワーグナー協会に入会。'78年、音楽院卒業に際して行われた作曲コンクールで『交響曲第1番』の第1楽章が演奏されるも、賞を逃しました(師匠であるブルックナーは審査に際して彼を大いに弁護したそうです)。'79年にウィーン・アカデミー・ワーグナー協会を退会。'80年、『交響曲第1番』完成。芸術家奨学金およびベートーヴェン作曲賞に応募。また、力添えを受けるべく、審査員であったJ.ブラームスを訪れました。ブラームスは当時押しも押されもせぬ大作曲家であり、ウィーン音楽界の重鎮。ブラームスに認められることが出世の早道でした(ロットがウィーン・アカデミー・ワーグナー協会を退会したのも、ブラームスと対抗しているワーグナー派色を拭い去るためだったと思われます)。しかし、ブラームスのロットへの評価は手厳しいものでした。絶望したロットはアルザスの小さな町に合唱指揮者として赴任すべく乗り込んだ列車の中で、ブラームスが爆弾を仕掛けたという妄想にとりつかれ、挙句の果てに、タバコに火を点けようとした乗客をピストルで静止、そのまま精神病院に送られました。一方で、ロットの作曲家への道が完全に閉ざされたわけではありませんでした。'81年に芸術家奨学金の授与が内定したのです。しかし、時すでに遅し。ロットの病状は悪化し、'84年に25歳の若さでこの世を去りました。
ロットの『交響曲第1番ホ長調』は4楽章から成ります。作風はブルックナー、ブラームス、ワーグナーの影響を多大に受けています。そして、時折G.マーラーを思わせる(マーラーそのものと言ってよい)箇所が随所に表れます。しかし、これはマーラーの真似ではありません。ロットのほうがマーラーよりも先輩で、マーラーがロットの影響を受けたのです。ロットのこの作品を一言で言えば、あらゆる要素をごちゃまぜにした感じ、でしょうか。それが上手くいっている部分もありますし、ごちゃごちゃし過ぎて、何をやってるのだかわからない部分もあります。2楽章と3楽章はまとまりも良いし、オーケストレーションも効果的と僕は感じました。
オーケストラは大健闘。金管楽器とティンパニ、そしてトライアングルが大活躍。作品のありのままを伝え、聴衆にロットの音楽を投げかけました。
終演後、僕がふと思ったことは、ロットが長生きしていたら、どんな曲を書いていただろうということ。確かに『交響曲第1番』にははちゃめちゃなところがあります。しかし、一方でとても素晴らしく、彼の才能を窺わせる部分もあるのです。年齢を重ねて、成熟していったら、もしかしたら、凄い作品を作曲したかもしれない。R.シュトラウスやマーラーを押しのけて、音楽史に燦然と輝く作曲家になっていたかもしれない。しかし、運命は違ったのだ。
今回の企画は音楽史の見えざる部分に光を当てたといえるでしょう。名曲の陰に隠れてしまった、あるいは埋もれてしまった作品を掘り起こすという作業は、「過去の音楽を再現する芸術」であるクラシック音楽にとって重要であると僕は考えます。今日の演奏会は、音楽学的見地の素晴らしさのみならず、演奏も素晴らしかった。こういう企画が増え、多くのクラシック音楽ファンが興味を持ってくれることを願っています。