2021/7/17
「『むらの小さな精米所が救う アジア・アフリカの米づくり』」
「図書新聞」書評
古賀康正 著『むらの小さな精米所が救う アジア・アフリカの米づくり』
(農山漁村文化協会刊・21.3.20・四六判・188頁・本体2000円)
わたしの両親の実家はそれぞれ専業農家ではなかったが、田畑を持っていて、秋になれば新米を届けてくれた。子供の頃はもちろん、青年期に入っても、稲から米に至る過程にそれほど関心を抱いたことはなかった。その後、漠然と理解出来るようになったが、米に対する拘りは希薄なままだった。年齢を重ねるに従って昼食はなるべくご飯類を食べることにし、夜は米を原材料にしている日本酒を飲み、つまみ類(鍋が多い)を食べることにしている。恩恵を受け続けながら米に至るプロセスを詳細に熟知していなかったことに本書を読みながら自省したことを、まず述べておきたい。
「16〜17世紀以降、現在に至るまでの数百年間、日本の米作農家は収穫した稲を精選した玄米にして売り渡し、国内の米の生産・流通・貯蔵・輸送などはすべて玄米のかたちでおこなわれてきた。これを「玄米流通」と呼び、日本で「米の量」といえば、注釈がないかぎり、玄米の量で表示されている。」「日本以外の世界の国々では、米はもっぱら籾あるいは白米で流通、売買、貯蔵される。つまり、「籾流通」と「白米流通」である。(略)玄米などというものがこの世に存在することを知らないひとも多い。」
「籾流通」は、品質に関係なく(あるいは品質の判断がつきにくいといってもいい)、生産者には最低の保証しか還元されない。しかし「玄米流通」は、品質による流通となるため生産者の利益に寄与する最善の方法となる。しかし、著者は、「玄米流通」の負の部分を「玄米流通制度は、日本の米作農民に作業の負担も強いたが、彼らの利益を長年にわたって守ってきた。(略)だが、輸送機械や動力が自由に使える現在になってみれば、玄米の輸送・取扱いの不便さ、貯蔵玄米の品質維持の難しさ、不経済さの面が目につく。このシステムを一朝にして廃棄したり変えたりすることは困難だが、早晩そのあり方は一考を要することになるだろう」と述べていく。
日本以外の、「米を主要食糧とする米作農民は、籾を生産し、その大半を籾のままで籾集荷業者に売るが、籾の一部は自家消費用にとっておき、それを白米にして家族の消費にあてる」という。しかし、そのためには、籾(殻)から白米にする必要があるが、「それには大変な時間と労力とを要する」ことになる。だから、自家消費用の籾を籾摺精米機によって白米にするための「農村精米所」が存在する。
「農村精米所ができると、農民はそれを利用してわずかな経費で自家消費用の白米を容易につくることができるようになる。さらに、それにとどまらず、できた白米を近隣住民あるいは地元農村の地方小都市の市場に行ってみれば、近傍の農村精米所でつくられた量り売りの各種地元産白米に顧客が群がっているのを目にすることができる。」「現在、アジアの零細米作農村地域に何千何万とある農村精米所は、(略)その歴史は比較的新しい。だが、農村社会においてそれらの果たしている役割はきわめて大きい。」
しかし、問題はアフリカ諸国ということになる。「アフリカでは米作の歴史が比較的新しい。しかし近年、アフリカの多くの国々では伝統的食物に代わって米が愛好されるようにな」ったという。しかし、「米の生産が消費に追いつかない」という現状がある。その理由として、「米づくりが農民にとっては十分に割のいいものではない」からだと著者は指摘していく。
日本における農業の問題は、やや違うと思うが、結局、米づくりは、機械化されたとしても、大変な仕事であることには変わりはない。日本の専業農家率がどれくらいなのか、わからないが、かなり少なくなっているはずだ。
「アフリカでの米生産が消費に追いつかない理由として、多くの専門家は「米生産技術が低いから」といい、それを発展させることが解決法であるとしている。(略)だが肝心の米作農民の立場はどうなっているのか。その技術を担うものは農民にほかならないのに、彼らの立場や利害に関心を払う者はきわめて少ない。農民にとって米生産の利益が大きいなら、農民の米を生産する技術もたちまちすすむはずなのに。」
アフリカの問題は、飛躍したいい方になるかもしれないが、この先の、日本の農業が抱え込む難題とクロスしていくような気がしてならない。
(「図書新聞」21.7.24号)

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投稿者: munechika
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