2022/7/2
辻󠄀一郎 著『証言と記録で綴る放送人高橋信三とその時代』
高橋信三(一九〇一〜八〇)という名前を見ても、「放送人」と冠していても知っている人は、それほど多くはないといっていいかもしれない。
戦前のラジオ放送は、日本放送協会だけで、やがて、大本営発表をそのまま流していくという最悪の事態を露出していた。それは、新聞も何社もありながら、同じ様態を示していたから、どんな媒体でも同じことだったといえる。
「(略)民間放送設立の動きは敗戦直後の一九四五(略)年秋にはすでに始まりました。(略)民間放送が設立されるまでには、結果的に六年もの時間を費やしました。/大阪においてこの交渉の中心的な役割を担ったのが、(略)高橋信三氏です。毎日新聞に在籍していた同氏は、第二次世界大戦中の大本営発表≠フ反省から放送を国家の手から解放し、民間企業としての「フリーラジオの精神」を樹立させることを目的に奔走し、新日本放送(現毎日放送)を日本最初の民間放送としてスタートさせました。(略)筆者は辻󠄀一郎氏。(略)一九五五(略)年に(略)、新日本放送に入社された氏は、高橋氏の謦咳に接した生存者の数少ない一人といえます。(略)民放スタートから七十年、(略)高橋氏のあるいは高橋氏を通した辻󠄀氏の「放送私史」といえます。」(山本雅弘「前書き」)
戦後、敗戦の傷痕が癒えぬまま、様々な領野で、新たな動きが出て来る。そして、民間のラジオ放送を各新聞社の人材を登用するかたちで進んでいった。
高橋信三は、「東京市神田鈴木町で藪田家の三男として生まれた」。「父の藪田章三は、母の高橋やすと養子縁組をして高橋姓を名乗っていた」から高橋信三となったことになる。「四歳のときには、実の父母のもとを離れ、母の生家、京都南禅寺に近い高橋家に引きとられ」、尋常小学校の三年を迎えると、「そのころ大阪に住んでいた実の父母のもとにもどされた」という。その後、大阪府立天王寺中学校を卒業後、慶応義塾大学理財科予科に進学、予科を終えると、経済学部に進学、大学三年の夏に、関東大震災。卒業後、不況のため就職難だったが、大阪時事新報にアルバイトで入った後、正式な社員となる。その後、「大きな舞台で働」きたいと思い、二八年五月、毎日新聞京都支局に採用される。やがて長い戦時下の時がやってくる。そして、敗戦。高橋は、その頃、大阪本社地方部長という立場だった。後年、その当時を回想した文章が掲載されている。
「敗戦の現実に直面して、われわれは新聞を如何に編集するかの難問に、逢着したのだった。(略)軍の圧力の下に言論が統制され、検閲制度が施かれていたとはいえ、現実に戦争遂行に協力してきた新聞は、戦時中、読者に多くの嘘を伝えてきた責任をとる意味で、従来の新聞を一旦廃刊にしてしまって、敗戦後の新しい新聞に生まれかわった新聞として出直すべきではないのかという議論。(略)甲論乙駁、一時編集局が異常な空気につつまれたことを思い出す。/そして、現実には、毎日新聞は敗戦によって中断されることなく、毎日新聞の題号もそのままに、創刊以来の発行号数もひきつがれてきた。/しかし、私個人の心のなかには、今でも当時の情況を思い返してみて、率直にあれでよかったのだったという気になれない、しこりがどこかに残っている。」
そして、著者は、「この「しこり」が、高橋の戦後の生き方をつくることになった」と述べていく。
五一年九月一日、新日本放送(NJB)が開始された。画期的な民間のラジオ放送が始まって、間もなく、テレビ放送の時代に入っていく。
「東京でテレビの放送が始まったのは、一九五三(略)年である。二月一日にはNHK東京テレビジョンが、八月二十八日には、日本テレビ放送網が放送を開始した。」
大阪では、NHK大阪放送局がテレビ放送を始めて二年半経過した一九五六年十二月一日、大阪テレビが開局されたことになる。
一九六一年一月、高橋は、毎日放送二代目社長に就任した。
著者は、高橋の真摯で苛烈な提言、発言を次の様に紹介している。
「私には高橋のように「NHKのテレビ放送はEテレだけでいい」とまで言いきる勇気はない。しかし民放の真似をしているとしか思えない娯楽番組を目にする都度、「NHKにはもっと別の番組に力を入れてほしい」とくりかえし発言した高橋の言葉を思いだす。」
さらに、次のような高橋の『毎日放送社報』に掲載された一文も引いている。
「一般概念として、民放の夜の番組は低俗だといわれている。低俗という意味が、大衆的であり、庶民的であるということならば、まさに、その通りだろう。だが、低俗は必ずしも俗悪を意味しない。庶民大衆が一日の仕事を終え、晩餐をすませて、のんびりくつろいでいるときに、肩のこらない、いい意味での低俗番組を放送することは、民放の一つのあり方として是認されていいのではないか。/民放は、報道番組においても、教養番組においても、教育番組においても、また娯楽番組においても、つねに庶民大衆とともにあり、大衆のなかにとけ込み、大衆の好みを、ありのままに反映させている。その意味で民放はまさに庶民とともに歩む文化媒体である。(略)低俗と俗悪とは、厳に峻別されねばならない。そして民放はいい意味での低俗であることを、むしろ誇りにすべきである。テレビというものは、そして、民放というものは、本来、そういうものなのである。」
この発言から、実は六十年近い年月が経っている。わたしは、NHKの報道番組はまったくといっていいほど、見てきていない。娯楽番組を中心にほぼ民放を中心にテレビは見てきた。高橋信三のこのような発言を抵抗なく理解していた時代から、いまは、NHKも民放も差のない空疎な番組が多くなってきたように思う。いまの若い人は、パソコンもテレビも兼ねているようなスマホに傾注しているから、テレビも段々、空疎になってきたような気がする。作り手側も、そういう利便性のある機器を消費する世代である以上、高橋信三のような真の放送人は二度と登場することはないだろうなと、思わざるを得ない。
(大阪公立大学共同出版会刊・22.1.25・A5判・582頁・本体3500円)
(「図書新聞」22.7.9号)

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2022/4/23
小島あゆみ 著『ALLY(アライ)になりたい――わたしが出会ったLGBTQ+の人たち』
(かもがわ出版刊・21.9.24・四六判・184頁・本体1600円)
LGBTQ+は、理解しているつもりでいたが、ALLYは初めて知った言葉になる。著者は、アライについて次の様に述べていく。
「アライは英語のAllyで、「性的マイノリティの味方、同盟者、支援者」を意味します。アライになることは多様性を認め、差別や偏見に敏感になることでもあります。」
わたしは、性的な結びつきに多様な関係があってもいいと思ってきた。それは、男と女がいて、結婚して子供をつくり、孫が出来てという時間の流れが普遍性をもつことに疑問をもっていたからだ。多様性ということを考えてみれば、LGBTQ+ではない男女が結婚しても子供は作らない。また、様々な理由があるとしても男女とも結婚せずに独身でいることは、特異なことではなく当たり前のことだと、わたしは考えてきたといっていい。
本書の著者は、高校時代の一年間、「交換留学生として、アメリカ東海岸ボストンの北にあるニューハンプシャー州ハンプトンの公立高校に通」ったという。ホストファミリーは、父母姉妹の四人家族で、長女のキャロルと親しくなった。著者に二人目の娘が生まれて間もない〇一年九月、「キャロルとジェイミーは結婚式を挙げた」が、同性婚だから法的な結婚ではなかったが、「たくさんの招待客の前で結婚を誓」ったという。一年後、キャロルが著者と電話で話していると、「わたしたち子どもをつくる予定なのよ」と伝えた。「同性カップルが子どもを持ってファミリーになるなんて、考えたこともなかった」と著者が思うのは当然としても、子どもを持てないと考えることが、そもそもアライではないということになるのかもしれない。二年後、「友人でゲイのジョッシュの協力を得て息子のルーワンが生まれ」たという。
「ストレート(異性愛者)でも結婚したい人、したくない人、子どもがほしい人、ほしくない人がいるのと同様に、LGBTQ+の人たちのなかでも結婚、子ども、かぞくについてさまざまな考えの人がいます。その当時LGBTQ+が子どもをさずかり、ファミリーをつくるというのは、アメリカ北東部の小さな町では、夢のまた夢だったのかもしれません。」
LGBTQ+というように括ってしまっても、様々な考え方を持っているのは当然だと思うべきなのかもしれない。著者は次のように述べていく。
「LGBTQ+という言葉が知られる一方、性的マイノリティをひとまとめにとらえてしまう傾向があります。しかし「L レズビアン、G ゲイ、B バイセクシュアル、T トランスジェンダー、Q クエスチョニング」はそれぞれ異なり、「+」にはパンセクシュアル、アセクシュアルなども含まれます。トランスジェンダーは、MtF(出生時のからだの性が男性でこころの性が女性の人)などにも分けられます。一言で「LGBTQ+」といっても、グラデーションのある多様な存在であることをわたしたちは意識しておくべきでしょう。」
確かに、LGBTQ+のことだけでなく、訳知り顔で語ってしまうことを慎重にならなければと思う。トランスジェンダーに関しては、「同じ性的マイノリティのなかでも自分のからだに違和感のないゲイやレズビアンにもその苦悩はわからないといいます」と著者は述べている。
例えば、この国のことを考えてみれば欧米とは違って、まだまだ、LGBTQ+に関していえば様々な偏見や誤解が横断しているといっていい。だから素直にカミングアウトできない情況がある。しかし、次の様に著者が述べていくことは、ひとつの普遍性を持っているといいたい気がする。
「(略)人にはマイノリティとしての部分があるものです。わたし自身の経験ですが、友人が心を開いて離婚経験や流産の話をしてくれたのは、一種のカミングアウトと考えられると思っています。自分のきょうだいに障害があるという人、DVを受けていた人、性的虐待の経験を持つ人、ハラスメントに苦しんでいた人、ひきこもりの当事者やそのかぞく、どれも話さなければわからない個人の体験です。人はなにかしら抱えて生きているのではないでしょうか。」
つまり、語り合える、少しでも理解しあえるといった関係性をかたちづくることは、どういう人にとっても切実なことだと、わたしならいってみたいと思う。LGBTQ+であることを生涯、吐露せずに生きていく人もいると思う。それを良しとするかどうかは、誰にも言えないといっていい。
だが、アライ(ALLY)であることが、当たり前のことであることを広げていくことができていければ、関係性は開かれていくことになるはずだと思いたい。
(「図書新聞」22.4.30号)

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2021/7/17
古賀康正 著『むらの小さな精米所が救う アジア・アフリカの米づくり』
(農山漁村文化協会刊・21.3.20・四六判・188頁・本体2000円)
わたしの両親の実家はそれぞれ専業農家ではなかったが、田畑を持っていて、秋になれば新米を届けてくれた。子供の頃はもちろん、青年期に入っても、稲から米に至る過程にそれほど関心を抱いたことはなかった。その後、漠然と理解出来るようになったが、米に対する拘りは希薄なままだった。年齢を重ねるに従って昼食はなるべくご飯類を食べることにし、夜は米を原材料にしている日本酒を飲み、つまみ類(鍋が多い)を食べることにしている。恩恵を受け続けながら米に至るプロセスを詳細に熟知していなかったことに本書を読みながら自省したことを、まず述べておきたい。
「16〜17世紀以降、現在に至るまでの数百年間、日本の米作農家は収穫した稲を精選した玄米にして売り渡し、国内の米の生産・流通・貯蔵・輸送などはすべて玄米のかたちでおこなわれてきた。これを「玄米流通」と呼び、日本で「米の量」といえば、注釈がないかぎり、玄米の量で表示されている。」「日本以外の世界の国々では、米はもっぱら籾あるいは白米で流通、売買、貯蔵される。つまり、「籾流通」と「白米流通」である。(略)玄米などというものがこの世に存在することを知らないひとも多い。」
「籾流通」は、品質に関係なく(あるいは品質の判断がつきにくいといってもいい)、生産者には最低の保証しか還元されない。しかし「玄米流通」は、品質による流通となるため生産者の利益に寄与する最善の方法となる。しかし、著者は、「玄米流通」の負の部分を「玄米流通制度は、日本の米作農民に作業の負担も強いたが、彼らの利益を長年にわたって守ってきた。(略)だが、輸送機械や動力が自由に使える現在になってみれば、玄米の輸送・取扱いの不便さ、貯蔵玄米の品質維持の難しさ、不経済さの面が目につく。このシステムを一朝にして廃棄したり変えたりすることは困難だが、早晩そのあり方は一考を要することになるだろう」と述べていく。
日本以外の、「米を主要食糧とする米作農民は、籾を生産し、その大半を籾のままで籾集荷業者に売るが、籾の一部は自家消費用にとっておき、それを白米にして家族の消費にあてる」という。しかし、そのためには、籾(殻)から白米にする必要があるが、「それには大変な時間と労力とを要する」ことになる。だから、自家消費用の籾を籾摺精米機によって白米にするための「農村精米所」が存在する。
「農村精米所ができると、農民はそれを利用してわずかな経費で自家消費用の白米を容易につくることができるようになる。さらに、それにとどまらず、できた白米を近隣住民あるいは地元農村の地方小都市の市場に行ってみれば、近傍の農村精米所でつくられた量り売りの各種地元産白米に顧客が群がっているのを目にすることができる。」「現在、アジアの零細米作農村地域に何千何万とある農村精米所は、(略)その歴史は比較的新しい。だが、農村社会においてそれらの果たしている役割はきわめて大きい。」
しかし、問題はアフリカ諸国ということになる。「アフリカでは米作の歴史が比較的新しい。しかし近年、アフリカの多くの国々では伝統的食物に代わって米が愛好されるようにな」ったという。しかし、「米の生産が消費に追いつかない」という現状がある。その理由として、「米づくりが農民にとっては十分に割のいいものではない」からだと著者は指摘していく。
日本における農業の問題は、やや違うと思うが、結局、米づくりは、機械化されたとしても、大変な仕事であることには変わりはない。日本の専業農家率がどれくらいなのか、わからないが、かなり少なくなっているはずだ。
「アフリカでの米生産が消費に追いつかない理由として、多くの専門家は「米生産技術が低いから」といい、それを発展させることが解決法であるとしている。(略)だが肝心の米作農民の立場はどうなっているのか。その技術を担うものは農民にほかならないのに、彼らの立場や利害に関心を払う者はきわめて少ない。農民にとって米生産の利益が大きいなら、農民の米を生産する技術もたちまちすすむはずなのに。」
アフリカの問題は、飛躍したいい方になるかもしれないが、この先の、日本の農業が抱え込む難題とクロスしていくような気がしてならない。
(「図書新聞」21.7.24号)

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2021/2/20
宮田静一 著『農泊のススメ』
(弦書房刊・20.11.30・四六判・240頁・本体1700円)
「農泊」という言葉は、聞き慣れないが、なんとなくイメージは湧いてくる。農村に泊まる、農家に泊まるということなのだろうという推測は成り立つ。だが、著者は、もっと広い視野にたって、グリーンツーリズムという考え方から、「農泊」は生起している。
著者は、東京の大学を卒業後、故郷の大分県に帰り、宇佐市安心院町でぶどう農園を開園。
「入植時の昭和四〇年代に安心院町では三五〇ヘクタール、三五〇軒がぶどうの国営パイロット事業でスタートしたが、その三〇年後、ぶどう農家は半減していた。この時「ぶどうの灯を消すまい」で立ち上がったのが、安心院町のグリーンツーリズム研究会であった。」
西欧では、アグリツーリズムといわれるもので、都市住民が、農場や農村で休暇を過ごすことだが、著者たちも最初は、九三年にアグリツーリズム研究会として発足するが、三年後、安心院町グリーンツーリズム研究会に改称した。「アグリからグリーンに変わるのにメンバーの中には反対があったが、これだけ農家が少なくなっている中でアグリはなかろう。都市と農村の交流に農家だけでは対応できない。(略)農家個々の取り組みではなく、農村としての運動、農家ツーリズムではなく、農村ツーリズム、「農村で休暇を」のグリーンツーリズム研究会が新生することになった」と述べている。
二〇〇〇年に、大分商業高校の生徒三二〇名を受け入れる。農泊教育旅行の先駆けとなった。やがて、全国から修学旅行を兼ねて、農泊することへと拡がっていく。〇一年九月、埼玉県立新座高校一五〇名が初めて修学旅行として訪れた。著者の家にも、七名の女子生徒たちが農泊した。そのリーダーから後日、嬉しい手紙(文面を引いているが、ここでは紹介しない。本書で読んで欲しい)が届いたという。
「研究会のキャッチフレーズに「一回泊まれば遠い親戚、十回泊まれば本当の親戚」というのがあるが、二泊しただけで本当の親戚を通り越してしまった。卒業式の後、我が家に農泊した子どもたちが黒板に「卒」と大きく書いて、その前にみんなで並んで撮った写真を送ってくれて、その写真を見て何とも言えず、目頭が熱くなった。農泊の醍醐味と言えよう。/あれから二〇年近く経とうとしているが、七人の娘の幸せを祈るばかりである。/この時三八軒の農泊家庭で受入を行ったが、三八通りの感動があって、今があると信じている。なぜなら、その後、新座高校は修学旅行で一〇年も安心院を訪れ、本当の親戚になったのである。」
例えば、観光地や温泉地の旅館や民宿に泊まって、料理や酒で満喫できたとしても、記憶は薄れていくものである。そこで働く人たちや旅館や民宿の主人との交流があれば記憶(思い出)も鮮烈に残っていくものである。人と人との交流が旅や暮らしのなかでは大事な要素となっていくからだといっていい。
「農泊体験で一番の教育効果「人は信じられる」とわかることではなかろうか。泊まった人達からの最高のホメ言葉は「家族や地域が仲が良く、力を合わせている」でなかろうか。このことは、簡単そうで難しい。(略)美味しい料理を出した上に、人間味が問われるのである。(略)グリーンツーリズムは人が資源なのです。」
例えば、共同体という捉え方がある。共同体というのは閉じては、窮屈な共同体のなかでの暮らしとなっていく。本当は、農村の方が開かれているはずなのに、農業だけでは生活は不安定になり、心的にも負荷が掛かっていく。子どもたちも、農村での暮らしから離反して都市部の方へと移動していく。開いていたはずの共同体が、だんだん閉じられていくことになる。本書を読みながら、画期的な農泊という発想が、共同体を開く力になっていくことに、わたしは感嘆したといっていい。
著者の熱意は、さらに加速していく。「ヨーロッパのように自国民が休暇をとって農村に出かけるようなバカンス法なしに、限界集落という山津波は防ぎきれない。このまま何もせず黙っていれば、誰かが言っていたが日本の大半の農村は安楽死集落に近い状態になっていくのでではなかろうか」と述べていく。そして、農泊の全国組織「未来ある村 日本農泊連合」を一九年三月、結成した。
【付記】「農泊」は、著者・宮田静一が〇三年十月に商標登録した言葉だ。
(「図書新聞」21.2.27号)

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2021/1/30
松下啓一+神奈川県政策形成実践研究会 著
『定住外国人活躍政策の提案
――地域活性化へのアクションプラン』
(萌書房刊・20.7.10・四六判・168頁・本体1800円)
東京に長年住んでいると、外国人とすれ違ってもなにも異和感がないまま、往来していることに気づくことが多くなった。何十年も前だったら、考えられないことだ。もうひとつ、よく道を聞かれたりしたものだったが、いまは、そういうことは、ほとんどないといっていい。本書では、在留外国人といわれてきたことを、あえて定住外国人としている。
「入管法には「在留」という言葉がありますが、あえて「定住」としたのは、そこに定着し、暮らしを営むという意味があるからです。外国人も同じ地域社会に暮らす一員なのだから、同じまちの仲間として、まちのために、その力を大いに発揮してほしいという素朴な思いから、このテーマを設定しました。」(松下啓一「はじめに」)
「このテーマ」というのは、「2017年度に神奈川県市町村研修センターが実施した政策形成」実践研究会の「定住外国人活躍政策」のことを意味する。そして本書は、研究会の成果を提案書としてまとめたものである。
研究会は、座間市役所、茅ケ崎市役所、平塚市役所、鎌倉市役所、小田原市役所、大井町役場、湯河原町役場に勤務する職員たちによって運営され、松下の提案によって、研修の成果として本書を刊行したことになる。
全体を序章も含めた全十章で構成して、提言していく。まず、序章の「共生と活躍」という項目は本書の中軸となるべきことになる。「共生」を「一人ひとりの個性や多様性が尊重され、自分らしく生きられること」と定義づけていく。もとより、「共生」は、定住外国人だけの問題ではなく、わたしたち、共同体の成員、全員にとっても、重大なことだといっていい。
「定住外国人が、本来持っている力を発揮できるようにするため、定住外国人と地域・市民との連携・支援を行い、保険、医療、福祉、教育、就労その他の制度の枠を見直し、各制度間の連携を図りながら、定住外国人が活躍できるように、推進体制の構築や具体的施策を実施していくのが「定住外国人活躍政策」である。」
現在の在留外国人の国別構成はどうなっているのだろうか。一九八六年は韓国・朝鮮が七八・一七%、次が中国・台湾で九・七三%、米国が三・五四%という順であった。二〇一八年は中国・台湾が一位で三〇・三四%、韓国・朝鮮が一八・三一%、以下、ベトナム、フィリピンが一〇%代で続く。「多国籍化がさらに進むことが予想される。宗教・文化、習慣、価値観などが違う人々が日本で暮らしていくことになるので、定住外国人も日本人も相互に努力しながら、共存の道を探っていくことが求められる」と述べていく。日本人と定住外国人との共生の難しさもあるが、日本人同士、定住外国人同士の共生も幾つもの障壁があるといっていい。いずれにしても違いを異和として見做すのではなく、違いを尊重し合いながら、共同性をかたちづくっていくべきだと思う。
「地方自治法の「住民」には外国人も含まれ」るという。また、「定住外国人が利用できる社会保障制度」もある。そのことは日本人、定住外国人にかかわらず、あまり認知されていないように思われる。そのことをどういうかたちで認識を広げていくかは、今後の課題なのではないかという気がする。
本書の、「自治体に暮らす外国人の意識」という項目の中で「横浜での生活で、困っていることや心配なこと」(二〇一三年度)のアンケート調査結果が掲載されている。一位が「日本語の不自由さ」二四・七%、二位が「仕事さがし」一六・七%、以下「病院に外国語のできる人がいない」、「税金」、「外国語の通じる病院の探し方」、さらに幾つか下に「病院受信時の通訳が見つからない」もある。病院関係の三項目を加算すれば断然の一位となる。わたし自身は、英語も単語を僅かに記憶しているだけの小学生並(あるいはそれ以下か)のレベルだが、行政や病院といったところは、最低限、英会話の普及は必然のような気がしてならない。
「基本的方向性」という項目のなかで、「定住外国人が増加していく中で、今後の自治体運営には、これまでの「共生」施策から一歩進んだ「活躍」施策へのシフトが求められている」と述べていく。
「「定住外国人は地域社会の貴重な地域資源である」ことを踏まえ、定住外国人が地域で活躍するためには、「協働」「主体性」「創造」という3つの要素が重要である。」
これらのことも、定住外国人だけの問題ではなく、やはり地域住民とともに共同で進めていくことでなければならないと思う。
このように本書は意欲的な提言が集約されているといっていいと思う。
(「図書新聞」21.2.6号)

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