週刊朝日が橋下大阪市長に仕掛けた戦争は、週刊朝日が早々に全面屈服となったようだ。
http://mainichi.jp/select/news/20121020k0000m040075000c.html
で、問題は、週刊朝日の当該記事が、明白に差別文書であり、こういうものが出版報道業界の最大手、保守本流でチェックを受けずに発行されてしまうという事態の問題だと考える。
橋下は現状、最も批判されなければならない人物である事にはかわりはないが、それとこれとは別である。むしろ、「橋下を批判する」という立場からは、敵に燃料を与える最低の愚行を批判するべきだろう。
内容的な事は方々で展開されているからおいといていいだろう。俺の父親もかなりのクズだが、俺の父親のやった事の責任を俺に取らせようなどという人は、今のところ幸いにしていない。
週刊朝日の「転機」について、俺は4年前に言及していた。週刊朝日の吊り広告に「いい加減にしろ!韓国人」というタイトルが載った件だ。
http://black.ap.teacup.com/despera/331.html
「will」だの「sapio」だののネトウヨ雑誌では、この手の表現は日常である。「ポスト」だの「新潮」だのというそれなりのブランドでも、こういうのがだんだん平気になってくる。
週刊朝日がこういうところへ踏み込むのは、「そういう環境」に後押しされたものだっただろう。
以後4年間、週刊朝日にどんな記事が載っていたのかは知らない。
この記事は『週刊朝日』2008年8月1日号。
いまから思えば、朝日新聞社出版本部が株式会社朝日新聞出版として再編されたのが2008年4月1日、これは偶然ではないだろう。
マスコミの場合は、機械的、官僚的な「差別記事検閲システム」が長い間、機能してきたわけだが、この新聞社と出版社の分離により、差別問題人権問題に関するチェック機能は朝日新聞出版社の方からは引き上げられたのだということが推察される。
「差別記事検閲システム」については様々な批判がなされてきた。
新聞社は批判を恐れるがためだけに作ったシステムであり、思考力の無い記者が書いた記事を「安全に検閲する」事で、ますます紙面を作る者は思考力を失っていく。そして「どの辺が差別表現なのかさっぱりわからない」ものを、機械的にはじいて検閲していくことの問題、差別の問題があたかも最初から存在しなかったかのような表現が生産されていく事の問題などが指摘されてきたかと思う。
そのシステムが全くはずされた結果が、このザマなのだ、という事なのだろうと考える。
マスコミ業界についての情報を俺が耳に入れていたのは、もうかなり昔の話なのでいまどうなっているのかはわからんが、常識的には、新聞社の記者などは、「差別問題について」「どのような表現が差別なのか」という教育を受けるものだと認識している。
週刊朝日の記事がどのような書き手によって書かれているものなのか、昔なら新聞記者が書き手というのが、新聞系週刊誌では常識だったが、今では「2ちゃんねらーに毛が生えたような自称ライターさん」の仕事になっているのか、よくわからんが、少なくとも発行責任者は新聞にいた人なんじゃないのだろうか。
日本の場合、マスコミの記者自身がエスタッシュブリメントを構成しているという問題はよく言われるところのものだ。
あえてステレオタイプで言うと、
旧帝大・早稲田慶応といった、高級官僚とほぼ同一の出自を持つ人たちが新聞社に就職し、高給をとる。この人たちは概ね「良家の子女」であって、差別問題などには「研修で習った」以上のリアリティをそもそも持っていない。
「良家の子女」というのは、そんなに上品な人たちだというわけではなく、「誰それが被差別部落出身だ」「誰それが親がヤクザだ」といった話をよろこんで消費する客層であり、そういうのを消費することで誰かから自らを「差別化」して自分たちが「良家」である事を再確認しているような連中であったりする。重ねて書くがこれはステレオタイプだ。
新聞マスコミというものの寿命が尽きてきているんではないかという話はよくあるが、今回のこの事態は、結構な致命傷なのではないだろうか。
願わくは、「相手が橋下だから」というような形で、これを免罪するような風潮が発生しませんように。そんな形でこれが処理されるのであれば、新聞社というものの命脈は尽きるだろう。
無論、差別表現・人権侵害などなんでもありという風潮にのっかって登場したのが橋下徹自身であるわけだが、それにまんまと嵌るなどは愚劣としか言いようがない。
*追記
この件、「朝日新聞出版管理部長」という人がコメントを出している。
http://publications.asahi.com/company/info/organization.html
「週刊朝日編集部」とは別系統の人が対応している、という状態だ。

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