何度もここに書いてきたことだが、俺自身は転向者である。ガキの時分は天皇主義右翼だった。
まあ、世間と折り合いのつかないガキが、ナショナルな一体感に意義を見いだしちゃったというような、ありがちな痛い話であるわけだが。
で、そういったナショナリズムとか愛国主義とかいったものが、我が国ではことごとく「在特会」の類のようなレイシストに回収されていくという現状を知ることにより、「こらあかんわ」という判断で、極端な転回を遂げたのである。
そんなこんなで、「愛国主義にはちょっとうるさい」のである。
でね。
昨日だかおとついだかに書いた「在特会」、「在特会」って書いただけでアクセスが数十倍(当社比)に跳ね上がるというのもどうかと思うが、諸々の反応があった。
代表的なものとしては、
*「在特会」のような腐れ外道の様式は、特殊な一部の、極端にダメな奴らであって、あれがすなわちナショナリズムなのではない。というもの。
この亜流として、「在特会」をナショナリズムの、あるいは「日本人的なるもの」の代表として切ってしまうことによって、「そうではないナショナリズム」を向こう側に押しやってしまう効果を持つから、けしからんというもの。
もう一つは
*ネット論争ごっこのネタとして消費していこうとするもの。
これは、最近はどういった種類の議論にも必ず登場して、ケッタイな理屈を開発することに意義を感じている人たちで、甚だうっとおしい。
というか、これはこの事件によって、いい年こいたおっさんにハンドマイクで罵倒されるという目にあった小学生のガキとか、そういうところのリアリティをあらかじめ切り捨てることによって、「純粋な議論としての消費」が可能になっているのであり、議論の建て方として根本的に間違っていると俺は思う。
でね。
「在特会」的なレイシズムは、果たして、日本国のナショナリズムの運動の中で、「特異な様式」なのであろうか?
日本の場合、レイシズムと切り離された「健全なナショナリズム」というものが成立する余地が果たしてあるのだろうか?
例えば靖国神社=日本が戦争動員のために設置したイデオロギー動員装置を見てみよう。
靖国神社には、「日本兵」として戦死した朝鮮人・台湾人の戦死者、また戦争犯罪者として連合国に処刑された人々が合祀されている。
これに抗議する朝鮮人・台湾人の遺族が、「死者の魂を返せ」と靖国神社前で抗議行動をおこなうわけだが、これに対して靖国神社に群がる右翼の諸君が投げる言葉はなにか?「朝鮮人はでていけ!」である。
これは「右翼がすげー馬鹿である」で済む問題だろうか?
日本は日本側の都合で、朝鮮・台湾に戦争動員の犠牲を強いた。で、日本は日本側の都合で靖国神社に合祀した。
なにもかもが「日本側の都合」でやっとることである。右翼の対応は、倫理も仁義もあったものではない、腐れ外道である。
これについて、靖国神社や神社本庁が右翼の心得違いを是正・教育しようとしている節もない。同じ光景が何十年も続いているのである。
で、この構造はどこから生まれたのか?
「最初から日本のナショナリズムとはこのようなものだった」というのが答えではないのか?
日本が大陸に侵略していく際に非常に美しい理念を語った。「五族共和」「東亜の解放」。西欧に支配されるアジアの諸民族の独立解放を助けるという理念を語って、日本は侵略していったのである。
で、実際に行われたことは、日本が西欧の支配者にとって代わって、新たな支配者になることであり、日本の民衆の中にアジアへの蔑視が組織されていくことであった。
その「美しい表向きの理念」と「レイシズム的蔑視」の組み合わせ、これが我が国のナショナリズムの基本的構造であり、それがいまなおその枠組みを一歩も出ることなく、再生産されているのではないか。
もう一つ、日本はこの六〇数年にわたり、アメリカ合衆国の直接的コントロールが機能したという、珍しい国である。自民党はアメリカが作った政党であるし、ナショナリズムも自民党の枠組みを一歩も出ることはなかった。反米右翼というのも探せばたまにいるが、マスコミに取り上げられる頻度が極端に多いので「いる」ように見えるだけであって、実際の勢力としては微々たるものである。(これは反米右翼の人たち自身は実感している事だろう。)
実際に自分の国を支配・コントロールしている国に対して反対しない右翼。これはナショナリズムとは言わない。「買弁」と言うのである。
なぜ我が国の右翼は買弁ばっかりなのか?
それは上記の構造、「美しい表向きの理念」と「レイシズム的蔑視」という枠組みの中からは、「アメリカの支配に反対する」などという文脈は出てこないからであるにすぎない。

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