「保守」というのがウヨな厨の人たちの自称として流行しているわけであるが、だいたいの言葉の意味で言うと、「保守」に対するのが「革新」であり、本来ならばこれは「重い」「軽い」とか「寒い」「暑い」とかの対の同類であって、そこには価値判断はなく、なんとなれば「革新」の人たちが革新を成し遂げて新しいよりよい社会が到来したとすれば、その「革新」の人たちはそのよりよい状態を維持安定せしめんと努力する事になるのであり、ここでは立場の逆転があることはあらかじめ予見できることであり、はたまた若いうちは「大人なんかだいっきらいだ」つってばりばりと革新に励む人が、ジジイになって喰うに困らなくなって「ああ明日も今日と同じよい一日であればいいなあ」などと保守を決め込む様などは、頻繁に見ることの出来る現象である。
ところがこの十数年というものは、若い人たちが若いくせに「保守」などと名乗り、大人なんかだいっきらいだとばりばりと保守に励むというようなケッタイな事が流行した。
そもそも腐った頑迷で保守な大人も、普通はそんなに「よし世の中を無茶苦茶にしてやろう」と思ってがんばってきたわけではなく、世の中が安定して回るようにしようっちゅー事で様々な社会のシステムというものを作ってきたわけである。戦後の自民党がなんであんなに強かったかというと、とにもかくにも「みんなが喰える」という地平を目指してきたからであって、日本では余所では社会民主主義がやるような事を自民党が政策として取り込んで一定程度実現してしまったからこそ強かったんであり、やることがなくなってしまった左翼はどんどん弱くなっていったのである。
「なにゆうてんねん、喰えへん奴いっぱいいるやんけ」というのはもちろん然りだが、戦前はもっと無茶苦茶だったのであって、その戦前に喰えてなかったのを喰えるようにしたというのは、過大評価してもいかんが、過小評価しても情勢を見誤るだけだろう。
で、その喰えへん奴を喰わしてるシステムを「ぶっ壊して」、搾取収奪し放題の世の中にしたら、カネ持ってる奴はもっと儲かりまっせ、というのが、小泉の「改革路線」だったわけであって、それにころっと騙された人たちが「保守」を名乗ってバリバリと保守に勤しんだのである。
いま、喰えへん人たちが本格的に喰えへんようになってきて、「あ、騙されとったかも」というのがばれてきて、一連の「保守」の騒動は一時期に比べりゃ衰退に向かっている。
ところが保守も「真性保守」となると、なんだかもうこういう話の枠組みすら意味を成さない、わけのわからないものであるようだ。
あちこちで既に言及されているが、「在日特権を許さない市民の会」という連中が、中学生女子を「日本から追い出せ」つって、中学校にデモかけた。
まともな批判はそこいら中でなされているので、重ねては書かなくていいだろう。
俺は「日本国家」には回収されない事に決めて、努めて「非国民」たろうとしだして久しいが、やはりこういうところでわいてくる「日本人として恥ずかしい」という感覚はなくならない。「日本国籍を持つ日本人」をこいつらが代表しているような事を抜かすというのは、寒気がするほどおぞましいのである。
そもそも、たまたま日本という土地に生まれたというだけで「俺様は日本人」とかいって威張っている奴が、たまたま日本に生まれて日本に育ち、日本語を話す人をつかまえて「日本から出て行け」とは、一体なんの冗談か?
こいつらの言う「在日特権」というのは、よその土地にルーツを持つ人間が、自分たちが当然持っている権利の一部を持つ事を「特権」だといっている。
では、「在日日本人」が当然にして持っている諸権利は、一体なんに由来するものか?
たかが、自分が生まれた時に親が日本国籍持っていたに過ぎない。
たかがそれ如きで、吹き上がって人様にツバ吐いてまわるようなカスは、いっぺんマジで諸権利剥奪したったらいいんじゃないだろうか。
しかし、嗚呼、「日本人」とはなんとつまらん民族であることよの。(詠嘆

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