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投稿者:やまさき

3/3に書いた:

「理解できない=(“我々”と同じ)人間ではない」とゆうよな、
“人間の範囲=理解できる範囲”っていうふうな“理解”なら、
理解できないけど同じ人間のようだ(交流できる)
ってゆうほうが良いのでは。

というのは、自由と生存権の問題としてです。
「同じ人間」なら、お互いの自由と生存権を認め合おう、ってことで、
生存権は憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とゆうようなことです。

昔「自己決定」って言葉がはやったときに、「他人に迷惑をかけなければ何をやっても良いこと」って言った人がいたけど、
それじゃー他人に「迷惑」をかけないと生存できない人:子ども、老人、病人、“障害”者、などなど、は自己決定できない=自由がないってゆうのか、って思いました(誰の「迷惑」にもなってないっていう人はいるのか?)。

最近の「尊厳死法案」ってゆうのもその延長線上で、「生きる価値のない=迷惑な人は、生存しないでくれ」って言ってるように思います:
http://www.arsvi.com/0p/et.htm

この根底には“能力のないものは生きる価値(自由と生存権)がない”という優生劣死の考え方があるような。。。

「ホリエモン」もこうゆうふうな考えのようだから、わたしとしては「仲良くする」ことはなかなか難しいような気がするけども、だからといって「ホリエモン」たちなどの自由や生存権を否定するつもりはありません。それは、否定してしまうとわたし(たち全て)の自由と生存権の基盤である、相互にそれを認め合うことを自ら掘り崩すことになるからです。

投稿者:黒目
う〜〜ん。例えばですね、「同じ人間」で、かつ、同じ日本語を共有する人間である、年齢が近い、という前提を以てしても、例えば俺と「ホリエモン」とわかりあえるような気はしないわけで(w、
なんか、無前提に「むこうからたまたま歩いてきた人」にいきなり話しかけて仲良くなるなんてのは、まあある種の訓練の結果として出来るっちゅーような事はあるかもしれませんが、あんま無いわけです。
で、仲良くする為には、なんらかの「媒介項」を設定する、具体的なものであったり観念的なものであったりするでしょうが、そおゆうのが必要なのではないか、というような事をちょうど考えておるところなんですわ。

まあもちろん、「同じ人間だ」というのもひとつの観念的な媒介項ではあります。
投稿者:やまさき

「関係性の2面性」ってゆうのはあると思います。
外からの侵略に対抗するために“解放軍?防衛軍?”
作って、侵略をはねのけた後で、他の国を侵略したりする。
やーさんとケーサツの人相が似ていて区別が付かないだけでなくて、マッチポンプで利害関係も区別が付かなかったりしたり。

人間同士でも組織でも、付き合う相手に影響され、似てくる、染められてしまうってゆうのがどーしても避けられないような(暴力と付き合う>暴力の連鎖も)。。。
...ということの繰り返しである歴史を見る(理解する)ことで、何が問題であるかはわかったような気になるけれど。。。しかし、じゃあどうするっていったときに、生身の人間であるから、自分のことは他人のこと:自己=他者とならないのでは。


「近代主義」ってよくしらんけど、自己と他者を同一の(“理性”かなんかに従う)もの、とみなしてるんですかね? 
しかし、他者・他人の痛みって感じられないわけだから、わからない(感じられない)ことを前提にして(正当化するわけではない:念のため)考えないと。。。

上記“歴史の理解”が広まってないのは、“知識の啓蒙”(エラソーで嫌な言葉)がなされていないこともあるかもしれないが、生身の人間にとって、自己=他者となりにくいからでは。
悲惨な(都合の悪い)現実を見たくない、悲惨なものは自分(たち)と同じ“人間”ではない(ことにしたい)から見ないって面が大きいのではないか。。。

“同じ人間である”こと、交流が成立しうることを示そうとした例に見えたんで、映画「ダーウィンの悪夢」を出したのです(無論ここには圧倒的な立場の強弱、白人男性と“第三世界”の人々があるけど)。。。
投稿者:黒目
技術の2面性とゆうよりか、関係性の2面性でもあ
ると思いません?よおするに「外人が入ってくるか
ら病気が拡がる」から、「外国に攻めて行くから病
気に罹る」へ。
「開国」当時には「外人」は日本で横暴に振る舞う
(日本側に検疫をさせないとか)わけですが、日本
人が外国へ行って横暴に振る舞うという、そおゆう
変遷というか。

「日本に外人が入ってきて横暴にしてイヤやった」
みたいな事を、数十年後にはすっかり忘れて、「日
本が入ってくる事を嫌がるとはけしからん」とか
ゆって、「われこそはアジアを開明せしめる使命を
背負っているのだ」とかほざいちゃう、これは物事
に対する歴史的な「理解が足りない」からなのでは
ないか、と、近代主義者である(W)俺は考えるわ
けですが。
投稿者:やまさき

どうも話が食い違ってるみたいで(食い違い自体はよいのですが)。。。
技術の二面性はその通りだと思います。
書こうとしたことは、理解できないもの(他者)との付き合い方というようなことで、技術の二面性/事の是非ってゆうこととは別のことです。

言い換えれば、他者を他者(どこかわからないところがあるもの)として扱うということで、
「「自分が体験していないこと」の軽さ」
を引用したのは、自分が体験してないこと=理解できない(わからない)こと・そういう部分、即ち他者(性)を
自分の尺度、感覚、基準で切り取り解釈して、理解できたことにしてしまうことの危うさ、を言いたかったのです。

技術や事の是非以前の/それと並ぶ問題として
自分の理解・解釈を他者に押しつける問題があって、
そういう場合に、
わからないことはわからないまま
(というか、わからないことを前提として)
付き合うことができないのかと。。。

投稿者:黒目
もちろん、「理屈がわかる」という事と、その事の
是非という価値判断とは別の事であるのは前提です
よ。
さいぜんのテレビの北里柴三郎も、北里の活躍で、
我が国が伝染病に対する検疫体制を完成させて、そ
の翌年だったかに日清戦争はじめるわけで。
戦時体制作りという側面を持った行為であると同時
に、それをやんなきゃ伝染病が蔓延するという、そ
おゆう二面性は常にあるわけで、そんな簡単に事の
是非なんか判断してしまえないですな。
投稿者:やまさき
(前の続き)
「理解できない=(“我々”と同じ)人間ではない」
ってゆうことに関連して:

「「自分が体験していないこと」の軽さ」
http://www.emaga.com/bn/?2006020094650502009386.7777
ってゆう投稿なんですが。
それは「中国籍の女性が園児二人を殺害したというニュース」
について

「私は国際結婚をして、8年間言葉の通じない外国に住み、子育てをした。人は殺していない。しかし、「言葉が通じない」と
言う事は、成人してから異文化の中に初めて行って暮らす人間
にとって、「たいしたことではない」と思うのは間違いだ。」

この文の前に
「私は、犯人を擁護するつもりはまったくない。『理解する』ともいう気は無い。しかし、人は自分が体験していないことを軽く考えすぎるのではないかと思う。」


よく言われる「気持ちはわかる」「理解できる」
ってゆうのは、裏返しになったときに排除につながる恐れが強いこともあるのでは(決して理解への努力を否定するわけではないのですがー)。

投稿者:やまさき
黒目さん
「南蛮船>攘夷運動」のようなマクロな(説明しやすい)
>>理解があって、「どうしてそう行動したか」がわかるのが第一歩だと思うけど。

しかし、その重要性を認めた上で、理解できないことがあった(残った:ってゆうか必ず残るのでは)時に、
「理解できない=(“我々”と同じ)人間ではない」とゆうよな、
“人間の範囲=理解できる範囲”っていうふうな“理解”なら、
理解できないけど同じ人間のようだ(交流できる)
ってゆうほうが良いのでは。

「ダーウィンの悪夢」ってゆう映画で、
ザウパー監督がカメラ回しながら、写される人と話をしているのがそのような“交流”に見えたんだけど(もちろん「マクロな理解」部分も多くて、しっかりされてますが)。。。
投稿者:黒目
>>草加さん
確か、インリン様がフジサンケイグループをボイコットしているとゆう話を聞いた記憶あり。
もっとも原則的に闘っているのはインリン様なのではないかと
http://www.mostsexy.net/

>>やまさきさん
HNKつながりで(w、こないだ「その時、歴史は動いた」(だっけ?)かなんかで、北里柴三郎やってまして、んで、開国の時に南蛮船が入ってくるたびに伝染病が流行し、それが「攘夷運動」の原因となった、というような事を言っていて、ああなるほどなと思いました。そうかて、そんな原因でもないと、攘夷運動なんかなんであんなことやってんのか意味わからへんかったんですが。
投稿者:草加耕助
80年代に「Dr.スランプ」で鳥山あきらがデビューした時、「おお、久しぶりに将来も有望そうな人が出たなあ」と思って見ておりましたが、「話の特集」誌に、やはり鳥山あきらのファンだというライターの方が「原発のコマーシャルにアラレちゃんが出てきて、椅子から転がり落ちた」みたいなこと書いてましたね。私はそのCM見てないから、おそらく東京電力あたりのCMだと思いますが。

まあ、仕事として依頼があれば、それを「断る」という選択肢は、今の日本では、よほどの政治的信念がないとできないことでしょうから、必ずしも「本人の責任」とは言えないでしょうが。

しかしまあ、昔にポルノ映画のちょい役とかしてた頃の「怪人・竹中直人」が好きだった身からしますと、もしこの映像をいきなりテレビで見たら吹いてたでしょうね(W

http://hatahata.mods.jp/
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