(「続・朝244」の掲載に伴い、7月12日掲載分を再録します。)
一年位前だろうか、他界したじいちゃんが、戦時中の写真を、アルバムにまとめた物がある事を書いた。そのアルバムは、ばあちゃんの形見として、俺がもらった物だ。
正直、最近まで日本軍にさほど興味も無く、階級章の見方も分からなかった。
正直、じいちゃんは厳しい人で、子供のころは好きでは無かった。
正直、じいちゃんの戦時中の話を、興味を持って聞く事は無かった。
しかし、俺に託された写真は何かを物語ってるはずだ。
俺には、限り無く小さく、限り無く無に等しく、しかしながら確実に日本の歴史の一部を担った先祖の事を後世に語り継ぐ責任があるのでは無かろうか?全てが遅すぎた事は否め無いが、数少ない手掛かりから第一歩を踏み出そう。
まず、ボロボロになりアルバムから剥がれ落ちた写真をファイルにまとめた。裏に説明書きの有る物、無い物、大判の集合写真、一部戦時中の物かどうか判別出来ない物も有るが、約240枚の写真があった。
年月日が記されたものは、1940年3月から1945年5月まで有る。裏に「上陸第一歩」と記された写真は、腹巻きにハチマキでテキ屋みたいなカッコをしている。その後、階級章が確認できるものでは、タダの三つ星(上等兵?)から最終的に曹長になっている。(小尉の下、現場では小隊長補佐)
1945年の写真では、“95式軍刀”と思われる(もしくは32年式軍刀改:曹長刀)下士官用軍刀を携えている。
その写真の多くは背景から中国。装備から見て北支と呼ばれた中国北部と思われる。
一番の手掛かりは、写真館で撮ったと思われる物で、軍服右胸に輝く“朝 244” バッヂだ。しかし個人的に分かるのはここまでなので、写真を持って靖国神社にある靖国偕行文庫(戦史、近代史の資料を集めた図書館)に行く。
胸の244は連隊章であるはずなので、書棚に並んだ戦史の資料から、支那、北支を中心に探してみる。が見つからない。その日は閉館の時間がきたので帰る事にする。
後日もう一度訪れ、今度は職員の人に最初から尋ねてみた。将校であればデータベースから氏名検索出来るそうだが、将校では無いからそれはできない。まずは写真を見てもらい、分かる事を教えてもらった。「朝244」の“朝”は「陸軍第20師団を示す物だっだ。敵が見ても一目で部隊を特定できない様に、各師団ごとに漢字一文字からニ文字で表しているそうだ。他にも「隅」近衛第一師団から「那智」第355師団まである。
次に、244を調べてもらう。確かに陸軍には244の番号を持つ部隊が二つあった。一つは244歩兵連隊、もう一つは244自動車中隊。しかし両部隊共に“朝”20師団とは関係無い事が分かった。色々調べてもらったが、20師団は最終的に太平洋南方に展開しているので、シベリアに抑留されたじいちゃんの話とは合わない。ここではそれ以上わからなかった。
結局、じいちゃんの兵籍簿を役所から取るのが一番だとアドバイスを受ける。ちなみに、最後に名刺をもらって分かったが、相手をしてくれた人は偕行文庫の室長だった。俺みたいな若僧をまともに相手してくれて感謝している。
俺は今も少ない手掛かりからじいちゃんの足跡を調べている。現在ほぼ進展は無いのだが、色々興味深い事を知る事になった。今回は長くなったから、それはまたの機会にしよう。
(写真は、祖父の遺した物。陸軍連隊旗の写真。)


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