自分がこういう音を敬遠してたのっていうのは、90年代の"輸入型シーン"の弊害(と自分の年齢か…)じゃないかと思ってる。90年代の日本にはハッキリとした形でのアイデンティティの対立って言うのは無かったと思っている。少なくとも自分にはそこまで強固な物は無かった。自分の経験して来た中で作り出されたアイデンティティを守るために、他者を否定しなくてはならないということは確実に有るし、それは危ういけど尊いものだと思う。だけど、「こちら側のシーンを聴くヤツはあちら側のシーンを否定しなければいけない」という輸入された構図(思い込み?)を自分のアイデンティティだと錯覚して、触れもせずに片方のシーンを否定していた事は本当に意味が無かった(当時のシーンを楽しんだ事には絶対に意味が有るけど)し勿体なかった。これは音楽の話だから勿論好みの問題でもあるけど、俺は「ハードコアというカルチャー」が好きだから、どちらも楽しみたいしどちらの視点からもアイディアを見付けたいと思う。それが自分の00年代以降の視点。↑のhis hero is gone、amebix 、orchid影響を同時に公言する(catharsis、gehenna 、left for deadという既に越境していたバンドの影響もポイントだけど… )THE SEPARATIONはそういう意味でももの凄く現代的なルーツを持って活動するバンドだと思う。音自体も凄まじいと思ったけど、そういう部分にも衝撃を受けた。リスナーとしてでは無くバンドが活動のアイディアとして拡散した多様なルーツを選び取り、集め再構築する、大げさに言うなら新しい時代が来たんじゃないかとすら思った。そういう面ではやっぱりリスナーの俺の方が数段遅れているのかもしれない。何でもフラットに聴けば良いっていうのにはやっぱりちょっと違和感が有るけど、自分のセンスを信じて色々な、ハードコアに限らず"シーン"に触れて、その後ろにあるルーツも掘り下げていきたい。
一方でVOW OF HATREDのように、限定されたルーツを持ちながらも、その領域を天然で無理矢理押し広げるようなバンドの存在も面白かった。ルーツに忠実で有るがためにの過大解釈の末、結果的にそこから少し逸脱してしまうという必然的な奇形化。VOW OF HATREDもそうだけど、既存のスタイルから逸脱していても変態的だったり、違うスタイルになったりせず、あくまでもそのスタイルの領域を広げるというところが凄くスタイリッシュ。ルーツへのリスペクトと愛を現代のセンスの上に乗せる。過去を踏まえ、継承して行く事が新しい領域に入る事に直接的に繋がる。ハードコアが伝統的で継承していく芸術だけど、それは完コピしてそのスタイルに留まるという事では無いんじゃないかな。
Failure To Fallという、ピッツバーグのバンドのアルバムがフリーでダウンロード出来ます。最高にカッコ良い。しかし、ブツとしてリリースはしないのかな。ブツを所持してるかどうかっていうのが、まだまだ自分のなかでは重要なんだよな、色んな意味で。スペース的な意味ではだんだん厳しくなってる気がするけど…
LOS CRUDOSは"モンド"として消費されてた面が有るってこの前友人が話してたんすけど、それはスパニッシュで歌っている事も含めた所謂ラテン・ハードコアの雰囲気がそうさせていたわけで、ラテンのハードコアって少なからず"モンド"的な消費のされ方をされて来て、実際自分もそういう面で買ってた部分が有る(某レコ屋は流行で買ってるヤツに南米モノは売らないって言ってましたね…)し。けど、実際にはLOS CRUDOSはそうじゃなかった、彼らが手本にしたであろう本場ラテンのハードコア・パンクに有る"天然の部分"が実は殆ど無い、自らが定めたコンセプトに忠実でクレバーなアート。彼らがバンドを始めた時のコンセプトはアメリカという国で「母国語」で歌うという事。それは政府がマイノリティーに強制してくる"単一化"への有効な抵抗の手段であり、レイシズムやメインストリームに立ち向かう為の行為、ハードコアという音楽を使ったアイデンティティの獲得。単純にスパニッシュで歌うという事と、アメリカという国で母国語で歌うという事は全く違う。彼らがスパニッシュで歌うという事はその語感がカッコいいんじゃなくて、それを選択したという判断の過程こそが本当はカッコいい。ラテン・ハードコアを倍速にしたようなサウンドも基本的には同じでしょう。