『
いのちの戦場ーアルジェリア1959ー』
『デイズ・オブ・グローリー』『アルジェの戦い』と意識してませんでしたが時系列で観て、最後がこの凄まじい"戦争"映画。完全に打ちのめされました。こういう映画っていうのは、映画館で観るという行為が1つの素晴らしい体験だし、観ないと伝えられないっていうライブと同じ感覚が有るかと思います。
*
メモ
アルジェリア戦争
アルジェリアの歴史
*
1830 フランスによるアルジェリア征服
1881 アルジェリア、フランスの本省直轄下に入る
1914ー18 173.000人のアルジェリア人兵士が戦地に送られ119.000人のアルジェリア人労働者がフランスへ送られる
1945 コンスタンティーヌ、セティフ、ゲルマで大暴動
1948 「アルジェリア議会」選挙実施、政府寄り議員が多数に
******
1954 FLN(アルジェリア民俗解放戦線)が蜂起、独立戦争始まる
1957 "アルジェの戦い"
1958 アルジェリア共和国臨時政府、設立宣言
1959.8 ド・ゴール将軍の第一回アルジェリア視察
1960 国連議会でアルジェリア独立の権利を承諾
1961 ヨーロッパ人テロリスト・グループが秘密武装組織OASを組織
1962 エヴィアン停戦協定〜国民投票により自決独立賛成多数〜フランスがアルジェリア独立を承諾〜アルジェリア独立宣言
1999 「アルジェリア戦争呼名法」制定
西の隣国モロッコが44年間、東の隣国チュニジアが75年間だが、フランスのアルジェリア支配は1830年から132年間に渡って続いた。その結果アルジェリアはナショナリズムの形成にとって大切な時代の大部分を植民地支配下に置かれる事になる。また、植民地支配の形態もモロッコ、チュニジアが保護領だったのに対しアルジェリアは直接領として共和国の中に組み込まれていた。この結果、フランス(ヨーロッパ)は自国の一部にした事で入植者、移住者を迎える必要が生じる。実際に希望者は多数に及び、1839年には25.000人だったフランス(ヨーロッパ)人の数は984,000人にも膨れ上がり、1954年時点でのフランス人の約80%はアルジェリア生まれのアルジェリア人(アルベール・カミュ、イブ・サンローラン等も)になる。この結果様々な問題が生じる。
アルジェリア人をフランス人化するため、言語ではアラビア語教育は禁止され、フランス語教育が徹底された、宗教ではキリスト教の布教活動が行われイスラーム教は制限されたが改宗が徹底された訳では無く、この結果、フランス語はかなりの割合で普及したがキリスト教に改宗するものは極少数だった。しかし、キリスト教に改宗しない事を理由に市民権を認めず、移動制限や裁判なしの処罰等を含む、「原住民差別法」を課した。また、1911年に施行された「原住民義務兵役制」により、植民地住民に兵役を義務付けた。
コレには反発も有ったが、結局は多くのアルジェリア人が徴兵に応じる事になり、第2時大戦ではアルジェリア人の16%が軍籍入り、フランス軍として従軍していた。市民権を持たないアルジェリア人がフランス兵として戦ってくれた事に対しては、フランス本国では良心の咎めや謝意の感情が一部では生まれていたようで、映画でもそれを締めす印象的なシーンが有る。
長い植民地支配から、アルジェリア人の中にフランスの位置付けを巡り意見の相違が生れる事になる。極一部のエリートや植民地行政に仕えた部族指導者、旧地主層などは、フランスへの同化を望み、共産党、民主主義者などは完全独立を目指しFLNを結成する事になる。
フランスへ労働者として出稼ぎにでたアルジェリア人の多くはカビリア地方に住む先住民族でイスラーム教徒ではあるが、アラブとは異なる民俗、ベルベル人だった。フランスはそこへつけこみ、「分割統治」を行う。ベルベル人の先祖はローマ人のキリスト教徒で有るとかガリア人で有るとうい「ガビール神話」を造り出し、彼らの伝統的習慣を尊重するとともに、キリスト教布教を熱心に行った。この結果、カビリア社会はフランス化したと思われ、アラブ人からの偏見や不信感が生れる事になった。
フランス軍に付くアルジェリア人はハルキと呼ばれる。ハルキには、フランス植民地行政に関わり、フランス側につくのが当然と考えるもの、報酬目当て、FLNへの復讐等様々だが、戦後ハルキはFLNに多くが裏切りものとして殺された。フランスに出国出来たものでも、アルジェリア人からは売国奴、裏切りものとして、アルジェリアへの帰国は許されず、フランス側からは民俗の魂を売ったもの、北アフリカのムスリム難民等と差別的感情をもってみられる事が多い。コレは現在でも多く残ってるようで、2001年のサッカー、フランス対アルジェリア戦でのジダンの頭突き事件もジダンが「ハルキ」と呼ばれた事による。
アルジェリア人のゲリラ兵はフェラガと呼ばれ、フェラガとは匪賊という意味でありフランス側が軽蔑的な意味を込めて使う名称、アルジェリア人は自らの事を決してフェラガとは呼ばず、ムジャーヒド(聖戦の兵士)と誇りを持って自称していたが、映画では主にフェラガの呼称が使われている。
映画ではガビール地方のダイタ村は昼はフランス軍、夜はFLNの支配を受けてたというエピソードが出てくる。ガビール地方は激戦区であり、フランス軍は家畜事村人を移住させ立ち入り禁止区域をつくり村人のFLNへの協力を防ごうとする事になり、FLNは村人に紛れ込む事でゲリラ戦を戦おうとした、結果的にフランス、FLNの2重支配を受ける事になる村人達は双方に良い顔をしなくてはならず、FLNにとっては、そうした村人の姿勢は闘争の妨げになる事から拷問と虐殺が起る事になる。これらの虐殺への復讐からハルキになるアルジェリア人が少なく無い。
アルジェリア側からは当時から「解放戦争」「独立戦争」という名称が使われていたが、フランス側では「北アフリカ作戦行動」と呼び、国内の問題と位置付けていた。しかし、正式な戦争でのみ仕様が出きる、ナパーム弾を「特殊爆弾」と建前的に呼ぶ事で使用する事もしていた。1999年になり「アルジェリア戦争呼名法」が施行され、名実共にフランスでも戦争と認められる事になった。
フランスの国旗、トリコロールは青が自由、白が平等、赤は博愛を意味していますが、アルジェリアの国旗は、緑が勇気と繁栄、白は平和と純粋性、そして赤は"アルジェリア戦争で流された血"を象徴しているそうです。
*
立案・主演のブノワ・マジメルは34歳と所謂"戦争を知らない世代"だと思いますが、他の俳優陣には親がFLNの闘士であったり、フランス本国でFLNに加担していたため、子供時代に強烈な体験をした家族をもつ俳優等が配置されていて、また脚本のパトリック・ロットマンは現代史家でも有り、彼が掘り起こした実際の人物、エピソードが事実を語るがごとく配置されているそうです。メロドラマ的に挿入されるエピソードも事実っぽい。
*
完全にクラシック。