誠大輔は4月で高校1年生になった。
新しい高校生活が始まる登校初日の朝、
天気は上々だった。
満開の桜並木の下をひとりバス停に向かって、大輔は気持ちよく歩いていた。
「おはよっ!」
ポンと肩を叩いて声をかけてきたのは、中学からの悪友、中島翔だった。
「あ、おはよう。」
「相変わらず暗いやつだな。」
そっけない大輔の返事に翔は毒づいた。
大輔は身長は170センチ。体重は60キロ。部活は無し。成績は中の中。クラス委員も無し。いわゆる目立たない普通の地味な少年だった。
「朝からうるさいなあ。俺のことはほっとけよ。どうだっていいだろ。」
面倒くさそうに大輔は答えた。
「大輔〜、折角の共学だぜ。高校生にもなったら、まず、ほら、カノジョ欲しいだろ?」
「いや、俺は別に・・・」
「お前が欲しくなくても、俺は欲しいの! 高校入ったら絶対女の子と付き合うって決めてたんだからな。そのための共学だろ?」
「え、そうなの?俺はお前に合わせて受けただけだけど。まあ割と近いし、レベルも丁度いいかなって・・・」
「とにかく、俺のマブダチがあんまりジミ男君だとね、俺までサエなく見えちゃうからさ、
もうちょっと、こう、ピッとしてくれよな。」
「何だかわかんないけど、俺はテキトーでいいよ。」
「大輔・・・お前・・・」
じっと大輔の顔をのぞきこむ翔。
「何だよ、気持ちわりーな。」
「大輔、お前、恋したことある?」
「なっ!何だよ!朝っぱらから変なこと聞くなよ!」
「無いだろ。無いんだろお前、オクテ君にもほどがあるぜ。まったくよ」
「だ、だから何だよ。だいたいなあ、学生の本分はだな、学業にあってだな、」
「お、バスが来たぜ。早くしろよ。」
二人はそそくさとバスに乗り込んだ。
さすがに朝は混んでいた。
「毎朝こんなんかよ。たまんねーぜ。まったくよ。」
手すりに押し付けられた翔がぼやいた。
しばらくバスに揺られながら、大輔は翔の話に生返事を繰り返していた。
ふと、停まったバス停で乗り込んでくる少女に大輔の目が釘付けになった。
「あれ?誰だっけ?たしかどこかで・・・」
大輔は端正な少女の横顔をじっと見つめていた。
「おい大輔、何見てんだよ、美人でもいたか?」
翔がささやいた。
「いや、何か見たことあるような子がいるなと思って。」
「え、どれだよ?」
翔は身を乗り出した。大輔の視線の先の少女を見つけると、
「あ、あれは、えーとたしか、あれだ、小学校のときの、ほら転校しちゃった・・・誰だっけ?」
「ああ、小学校5年の時の。思い出した。たしか美咲・・じゃなかったっけ?」
大輔も記憶が戻ってきた。
「そうだよ。美咲だよ。美咲愛だ。あんなに可愛かったっけ?美人になったよな。女は変わるねー。まさか同じ高校とか?」
うれしそうに翔が答えた。
しかし、美咲愛はそんな二人のやりとりに気付くはずもなく、しばらくすると先にバスを降りてしまった。
「あ、なんだ。フジジョの制服だよ。富士見女子校。ウチの高校の隣だ。そうかー、子供のときはどっか遠くに引っ越して行っちゃったと思ってたけど、実は隣町だったんだな。なあ、大輔」
大輔は愛の姿に釘付けになったままだった。
「お!まさか一目惚れ? 大輔さん、遅い初恋ですか?」
にやにやと翔がわき腹をこづいた。
「ばっばか、そんなんじゃねーよ! ただ偶然久しぶりで驚いただけだよ。」
ごまかす大輔に翔はふーんと半信半疑だったが、バスは間もなく二人の高校前に到着し、二人はあわてて下車すると、小走りに校門に駆け込んで行った。
その夜、大輔はベッドで寝付けなかった。
目を閉じると、愛の可愛らしい横顔がまぶたに浮かんできて、心臓が高鳴りドキドキしてしまい、眠れなかった。
「何だろう、これ。やっぱり初恋なのかな。どうすればいいんだ?」
大輔は枕をかぶって布団でもんどり返るのだった。
翌日から大輔は一人でバスに乗った。
翔は、「混んでいるバスはいやだから自転車にする」と言っていたが、どうやら同じクラスの気になる女の子が自転車通学しているらしかった。
ともあれ、おかげで大輔は一人静かに、毎朝数分間、美咲愛の横顔を堪能することができたのだった。
そんな幸せな片思いが数日続いたある晩、大輔は美咲愛の夢を見た。
夢の中では、なぜか大輔と愛はすっかり友達だった。
昔なじみのように、あるいは恋人同士のように自然に会話をして公園を歩いていた。
そして公園の大きな木の陰にやってくると、二人は立ち止まった。
大輔はだいたんに愛の両肩を優しくつかんでいた。
恥ずかしそうに顔を赤らめ、うつむく愛。
やがて決心したように愛はそっと顔を上げて、静かに目を閉じた。
大輔の心臓は爆発しそうなほど高鳴っていた。
生唾をごくりと飲み込もうとしたが、口の中はカラカラで出来なかった。
ひざはガクガクとふるえ、足に力が入らず立っていられないほどだった。
何も出来ず声も出せず大輔はただひたすら立ち尽くしていた。
どうしたらいいのかわからず、目が回りそうになる。
まるで無限とも感じられる時間が過ぎたような気がした。
やがてこのままでは愛に嫌われてしまうかもしれない、
と不安になり始めた。
意を決して、大輔はおそるおそる愛の方に顔を近づけていった。
愛の顔が目の前に迫ったとき、ふわっと愛のいい香りが漂って来た。
その匂いを吸い込んだ瞬間、大輔の体の奥がぐっと熱くなり、
頭にかあっと血がのぼってきた。
大輔の頭の中は真っ白になってしまった。
大輔はぐいっと愛の体を引き寄せると、
その白く細い首筋に思い切り噛み付いた。
力一杯噛みしめ、愛の首筋を噛みちぎった。
首筋に丸く大きな穴が開き、真っ赤な鮮血がどっと吹き出す。
大輔は頭から血しぶきを浴びて真紅に染まった。
スローモーションのように愛は大輔の足元に崩れ落ちていった。
倒れている愛の首からは、とめどなく血が流れ、
瞬く間に大きな血だまりとなって広がっていく。
その姿を呆然と眺めていた大輔はハッと我にかえった。
あわてて口いっぱいの肉片を吐き出すと同時に絶叫した。
「うわあああーっ!」
自分の大声で大輔は目を覚まし、ベッドから跳ね起きた。
冷汗をびっしょりとかいていた。
はあはあと荒い息をしながらも、大輔の口の中にはまだ愛のあたたかい血の味と喰いちぎった肉片の感触とが生々しく残っていた。
大輔は強烈な血の臭いと味の記憶にむせ返り、
トイレに駆け込むとげえげえと吐き戻した。
「俺はなんであんな恐ろしい夢を・・・。まさか本当はあんなことがしたいのか? あれが俺の本性なのか?」
大輔の頭は混乱して気を失いそうだった。
トイレでうずくまっている大輔の元に近づく足音があった。
「大輔、どうした? 大丈夫か?」
祖父の条一郎だった。
大輔は幼い頃に事故で両親を亡くし、祖父に引き取られていた。
「あ、おじいちゃん、うん、大丈夫だよ。何でも無い。ちょっと嫌な夢を見て気持ち悪くなっただけ。」
「そうか、それならいい。明日は休日だ。心配しないでゆっくり休みなさい。」
条一郎は大輔を気遣うと、部屋に戻って行きながら、ぽつりとつぶやいた。
「とうとう来てしまったか・・・。」
翌日、遅く起きた大輔はダイニングにおりてきても、食欲は無かった。
どうしても口の中の血の味と肉の感触が拭い去れないのだった。
気持ち悪さと罪悪感で胸が悪くなるのを、必死にこらえていた。
やっとの思いで水を一口飲むと、ぐったりとイスに座り込んだ。
「大輔、起きたか。大事な話があるから、私の研究室に来なさい。」
条一郎がダイニングをのぞきながら声をかけた。
「えっ? 何? 話って。あ、今行くから。」
びっくりして大輔は立ち上がると条一郎の研究室に向かった。
「これまで、いつも絶対入るなって言ってたくせに、何だよ急に大事な話って・・・」
つぶやきながら大輔は研究室のドアを開けた。
中は雑然として、書類や本、薬品のビン、なにやら怪しげな標本などが所狭しと置かれていた。
その奥に条一郎はいた。
「来たか、大輔、こっちだ。」
条一郎は床の取っ手をつかむと、重そうな扉を開き、地下におりて行った。
「うちに地下室なんてあったのか・・・」
大輔は驚きながら、薄暗い階段をおそるおそるおりていった。
地下室は予想以上に広く、がらんとしていた。
コンクリートがむき出しの室内にはシンプルな机が一つ、コンピューターが1台、やたら頑丈そうなロッカーが大小二つあるだけだった。
天井には蛍光灯が一本、頼りなさそうにぶら下がっていた。
条一郎はその机のイスに腰掛けていた。
「そこに座りなさい。」
条一郎はもうひとつのイスに大輔を促した。
「私の研究は知っているか?」
「確か、生物の進化とか、あと、人間の・・・なんだっけ?」
「生物人類学だ。まあ、分かりやすく言えば、人間はいったいどんな生物なのかという研究だな。」
「それが大事な話?」
「そうだ。今日でお前の人生が変わる。文字通り完全に変わってしまうだろう。」
「そんな大げさに言わなくても」
大輔は笑った。
「まあいい。だが、これは深刻な話だ。真面目に聞きなさい。」
「あ、ごめん。なんか普段と違ってさ、変だなって。」
「大輔、人間と他の動物の違いはわかるか?」
「え? 急に何? えーと、頭がよくて、しゃべる事かな。」
「それもそうだが、イルカや鯨は脳が発達していて言語があるらしいな。
犬猫でも鳴き方で意思疎通はできるだろう。
話こそ出来ないが、ちゃんと人間の言うことだって理解できる。
程度の差であって、決定的な違いでは無いな。」
「じゃあ、手で道具を使うこと。」
「それはサルでもできる。」
「ん〜と、科学的な文明はどう? ビルとか町とか」
「それも程度の問題だな。鳥でもビーバーでも立派な巣を作る。やはり本質的な違いでは無い。
いいか、大輔、人間と他の動物とが決定的に全く違う点が一つだけある。」
「何?」
「仲間殺しだ。」
「どういうこと?」
「動物でも、縄張り争い、メスの取りあい、エサの奪いあい、同じ種族で戦うことはいくらでもある。
しかし、動物は決して同じ仲間を殺すことはしない。
必ず弱い方が負けを認めると、勝った方はそれで逃がしてやる。
絶対に相手を殺すところまではやらないのだ。
種族保存の本能がそうさせないのだな。しかし人間だけは違う。
同じ人間を殺すことができてしまう。」
「動物だって共食いとかあるんじゃない?」
「それは昆虫などだけの話だな。よほど飢えた極限状況でもそれはない。
肉食動物の共食いの場合は相手が弱って死んだ後にそれを食べるのであって、同じ種族を殺して食べることは決してしないのだ。
人間は生きのびるためだけでなく、自分の勝手な欲望のためでさえも簡単に人を殺す。さらに動物に絶対ありえないのは、喜んで同属を殺すことなのだ。
人間の歴史は殺戮の歴史だ。あらゆる生物を殺し勢力を拡大してきた。
そして同属でも常に殺しあいを続けている。戦争でも身近でも。」
「そうか、言われりゃそうだよね。殺人事件の無い日はないよね。」
「そうだ。凶暴な肉食獣のライオンやワニでさえも、お互いを殺すことなどありえないのに、理性を持つはずの人間が毎日殺し合いを続けている。
この比類なき人類特有の残虐性は一体どこに起因するのか、それが私の研究だった。
人間は人の不幸を喜ぶ。人をいじめたい、人を傷つけたい。
それらはすべて人を殺したいという、もはや本能的ともいうべき人間のおぞましい本性だ。キリスト教でいう原罪、性悪説などに通じるものだ。
これは私を含め、多かれ少なかれすべての人間に共通の感覚だろう。」
「悲しいけどそうだよね。でも、それと俺と何の関係があるの?」
「大いに関係ある。お前も気付いているだろう。」
条一郎は鋭く大輔を見つめた。
大輔は夕べの夢を見透かされたような気がしてドギマギしてしまった。
「私はついに人間の残虐性の一つの原因を発見したのだ。」
言いながら条一郎は立ち上がった。
「それはこの世のものでは無いものによる。私はそれを仮に業人(ゴウスト)と呼んでいる。」
「ゴースト? おばけ?」
「そうだ。幽霊、霊魂、妖怪、お化け、精霊、悪魔、妖精など、世界中の人間は古来、様々な呼び名でそれらを呼びあらわそうとしてきた。」
「そんなものが本当にこの世に存在するの?」
「この世には存在しない。」
「やっぱり、そりゃそうだよね。」
「そうではない。この世には、だ。それが最大の問題だったのだ。我々の住むこの世界。
通常、三次元世界と呼ばれる。一方俗に言われる四次元、つまり異次元世界。亜空間ともパラレルワールド・平行世界とも言われる。昔ならあの世、霊界、黄泉の国、魔界、地獄、といったところだな。」
「じゃあ、本当に地獄があったってこと?」
「いわゆる人間が想像するような地獄の世界かどうかも分からない。
なぜなら我々はそこを見ることが絶対にできないからだ。
ただ、この世界に隣接するもう一つの空間世界があるらしいという事がわかるだけなのだ。
しかし、特殊な感覚が鋭敏な人間、空間のひずみや磁場、電磁波などを無意識に感じ取れるような人間には、その異空間との接点、あるいはそこの生物、といっていいかどうかはわからないが、そこにいるものを感じ取れることがあり、それが世界の伝説伝承の元になったのだろう。」
「そのゴーストが人間と何の関係があるの?」
「ここからが本当に重大な問題だ。彼らは、時折我々の空間にやってくる。
というか、来たくて仕方が無いらしい。しかし、次元の違うこの世界では、もちろん彼らは実体を持つことは出来ない。
それで人間に取り付くのだ。憑依、あるいは融合とも言えるかもしれない。人間の生命の誕生の瞬間、つまり受精の瞬間を狙い、そこに紛れ込む。そしてそのまま静かに成長するのだ。
しかし多くの場合は、何事も起こらない。そのまま人間として成長し、死んでいく。
ただ他の人よりも怒りっぽかったり、残忍性が強かったり、その程度だけだ。実際、暴力犯罪者にはこの深化憑依型が多いのが事実だ。」
「普通の人と区別はつかないの?」
「残念だがそれが出来ない。遺伝子レベルで見ても違いは分からない。オカルト的に言うなら霊体レベルということにでもなるのだろう。特殊な、いわゆる霊感とでもいうようなものでしか、判別できないから困っている。」
「じゃあ、放っておくしかないの?」
「いや、ごくまれに完全にゴウストとして成長してしまうケースがある。
思春期になると精神的に不安定になり、その時の精神状態によってはゴウストに人格を乗っ取られてしまうことがあるのだ。
こうなってしまった者をVANKS(ヴァンクス)と呼んでいる。
とても人間業とは思えないような残虐な殺人事件、これらはみなヴァンクスの仕業と思っていいだろう。だからこうした凶悪犯罪の多くは犯人が捕まらず、迷宮入りしてしまうのだ。」
「ヴァンクスってさ、人間じゃないの? なんだか信じられないんだけど・・・。」
「まあ、無理も無いだろう。誰だってこんな怪物がこの世に存在するなど、信じられないだろう。いいか、驚くな。」
そういいながら、条一郎はロッカーへ歩み寄ると、頑丈そうな鍵をはずした。
ギギギと、きしみながら扉が開いた。
それは巨大な冷凍庫だった。
真っ白い冷気がさあーっと流れ出てくると、奥に何か黒い大きな姿が見えてきた。
「これがヴァンクスだ。」
そこには人間でありながら、人間ではない者の凍りついた姿があった。
まさに悪魔、怪物の姿だった。
目を見開く大輔。言葉が出ない。
「本物だ。ただし完全に死んでいる。安心していい。」
そういいながら、条一郎は扉を閉め、鍵をかけると振り向いた。
「そして大輔、お前もこのヴァンクスだ。」
「・・・・え、どういうこと、俺は人間だよ。間違いない。そんな変なバケモノじゃないよ。」
戸惑いながら大輔は答えた。
「いや、大輔、分かっているのだ。お前は間違いなく憑依されている。それが夕べついに目覚めた。
最初は凶暴な夢を見る。
そしてそれが続くと日常でも凶暴な欲望が抑制できなくなる。まず身近な小動物を殺し始め、やがて満足できずに人間を襲う。
その時は完全なヴァンクスの姿になっているだろう。」
昨晩の恐ろしい夢を思い出し、大輔は蒼白となった。
「たまたま、見ただけじゃないの・・・? 何かの加減で・・・。」
「いや、残念だが間違いないのだ、大輔、わかってくれ・・・。」
条一郎も悲痛な面持ちだった。
「じゃあ、どうすれば? 俺はこのまま凶暴な怪物になるしかないの? 直す方法は?」
「直す方法は無い。不可能なのだ。
だが、お前に出来ることが一つだけある。
それが私の願いなのだ。」
条一郎は決意の眼差しで大輔を見つめるのだった。

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