いわゆる「特定アジア」──すなわち中国・韓国・北朝鮮の3ヶ国のことであるが──に対して、非常にすり寄った言動をする政財界・言論界の有力者は数多い。その多くが、「彼らとの関係を悪化させることで日本は国際的に孤立する、国益を損なう動きだ」として小泉政権下での外交分野を必要以上に牽制し続けている。
その傾向はマスコミの大半にこれまた顕著で、事あるごとに「アメリカに偏った立ち位置」「アジア軽視」「日本の右傾化」「過去の戦争を肯定」などと非難してのける。筆頭は朝日新聞(TV朝日)、次いで毎日新聞(TBS)、その後に読売新聞(日テレ)やNHKが続く……という所である。
上のような偏向マスコミ(俗に「
マスゴミ」と言う)による「特定アジア賛美」姿勢はネット上ではかなり有名になってきており、今さら私が総括するまでもない。
だが、その中に時折り紛れ込む「アメリカ偏重への批判」、これはいわゆる右派勢力からもよく警告される。「媚中・媚韓は論外だが媚米も駄目だ」という主張である。
今回は、この「アメリカ重視」の是非に少し触れる。
皆様よくご存知とは思うが、アメリカは60年前に第二次世界大戦・連合国として日本を降伏させ、連合国軍事裁判によって「戦争をした」罪により戦犯として当時の指導者の多くを処刑し、またGHQの手により現在の「日本国憲法」を日本に施行させた。
いわば戦前の価値観からすればアメリカは「敵」である。
その過去から考えると、確かにかつてから今に至る「安保体制」や、現在の「対テロ戦争における共同歩調」(イラクへの自衛隊派遣など)は「敵にへりくだる屈辱的な体制だ」と考える向きもあるだろう。
そもそも日本国憲法自体、「紛争解決手段としての戦争」及び「そのための戦力」という、日本以外のほぼすべての国家があまねく所持し運用可能な権利を「放棄」するという世界唯一の対国家律法である。
このような異常な状態に日本を追い込み、今なおその状態につけ込んで米軍基地を堂々と日本に置き、自国の利害のため日本に協力を強いる……そういう関係である事に耐えられぬ怒りを覚える人も多いであろう。
「そんなアメリカに尻尾を振り、便宜を図る小泉は売国奴だ」と叫ぶ人々の感情の根源もその辺にあるのかもしれない。
だが、私も自分なりに歴史や国家の成り行きをいろいろ調べてみて、ひとつ気付いた事がある。
60年どころか、10年20年程度のスパンで敵味方が入れ替わる程度の事は、ことに近代の歴史ではむしろ日常茶飯事であったと。現在のように国家間の力関係が維持され続ける期間の方が、むしろ例外的ですらあった、と。
ひとつには、国際連合という組織(第二次大戦の「戦勝国」を母体とする組織である。決して世界警察とかではない)が、アメリカという大国の「行動実行力」を下履きに世界秩序の維持へと方向性を一にする機能を発揮したことがある。いわば、アメリカという(第二次大戦で余力をかなり残し、戦略的にもほぼ満点をつけた)「抑止力」によって更なる世界大戦の兆しは抑え込まれた(今も何とか抑え込まれている)、そう言ってよいだろう。
たとえばベトナム戦争などではアメリカも軍事・社会両面に痛手を被ったが、その際は他の大国がうまくバランスを維持して──すなわち、アメリカの作ったレールの上を走り続ける事を選んで──、その抑止力の代替を努めたと言えるだろう。(局地的には共産独裁政権の横暴を許しはしたが……)
今でも国連の主導権争いは表に裏に行われているが、皆ある意味で「アメリカの存在に依存」していることに変わりはないのだ。今アメリカが突然この世界から消え失せたらば、途端に世界は大戦争時代を迎えることであろう。誰も、その役割に無期限の肩代わりをしようとは思わないはずである。
世界を見てもそうなのであるから、結果的にとはいえ軍事防衛力の権限及び質・量の双方を相当程度アメリカに依存せざるを得ない日本が、「アメリカから真の独立を果たし一定の距離を」などと論じられてもちゃんちゃら可笑しいとしか言えない。
さらに反日サヨクになってくると、平気で「アメリカ依存をやめてアジア重視で」と言い放つ。往々にしてその「アジア」とは特定アジアなわけだが、百歩譲って東西南北中央アジアすべてを指すとしても、それらを重視したところでアメリカの存在を代替することは不可能である。アメリカを除いた全世界で見ても不可能なものを、日本とアジアだけで可能になるものか。
まして、過去の日本は歴史上アメリカ以外の交戦経験国とは勝ったり負けたりだが、アメリカには一度も勝利していない。(局地戦戦績除く)
ただでさえ世界が依存し、また自らが対立して勝利した経験すらない相手を無闇に切り捨て対立しようとするのは、「亡国のススメ」と言うのだ。
なお、アメリカに手も足も出ないかと言えばそんな事はない。
経済分野では、戦後だけでなく戦前から「ものづくりの質」では日本が圧倒していた。大量生産に耐えられる社会体制が整ってからは連戦連勝である。
「ものづくりに魂を宿す」国、日本。
私達は己の生まれた国を、もっと誇ってよい。
やや話が逸れた。
先に述べた通り、現在の「国連を中心とするバランス」が長く続いている事自体がひとつの奇跡なのである。安易な対米強硬論に迎合してそのバランスを崩そうとすれば、下手をすると極東発・第三次世界大戦「日本・朝鮮炎上編」が現実のものとならない保障はない。核ミサイルの照準が隣国から向けられている今の日本列島は、間違いなく「アジアの火薬庫」なのである。
確かにアメリカは自国利益に貪欲である。己の正義感に忠実で、そのくせ都合が悪くなると喧嘩腰になる、かつての宿敵にして厄介な友人である。
……しかし、それでも彼らは自らの価値観の限りにおいて「よき友人」であろうとしてくれる。誠意には、ちょっとのエゴを混ぜつつも同じ誠意で返してくるし、たとえ喧嘩しても納得すれば元の鞘に収まってくれる。
我らが隣人達は違う。
己の伝統的価値観すら時代によって作っては脱ぎ捨てる。
「対等の関係」を理解できない。
歴史を「教訓」ではなく「自慢と怨念」として捉える。
何より、「国家」という枠を尊重しようとしない。
彼らにとって、自国の「国家」という枠は「己の認識世界」である。共産主義国家の思想にも通じるが、彼らは「自分の価値観外から自分を枠に収めるもの」「自分の価値観が相容れない別の枠」を異様に嫌う。何が何でもその枠を破壊し、「自分の認識できる枠」だけで自分の認識範囲を埋めようと画策する。だから「他の異文化」「慣習的な秩序」「歴史と伝統(根源的なルーツ・アイデンティティは除く)」などを恐れ、憎み、侵食し、破壊しようとするのだろう。
日本人はそういう考えとは無縁である。
かつて黒船来たりし時、江戸幕府の人間達は必死になって相手の考え方・価値観を取り入れ、対応しようとした。結果として間に合いはしなかったが、その姿勢は維新勢力もまた同様であった。
アメリカも、しばらくして日本を「野蛮人」という認識から「変な文化を持つ異人」という認識に改めた。(人種差別についてはまた別なのでここでは除く)
我々にとりむしろ、特定アジアこそ最も縁遠いとすら言えはしないだろうか? これ程に、歴史上交流がありながら共通点が少ない文化も珍しいと思う。
「そうは言ってもアメリカは横暴だ」
然り。それもまた間違ってはいない。
だが、かつての戦争によって犠牲となった多くの人達に思いを馳せたなら、私達はむしろ「二度と無謀な決断はしない」よう心するべきではないのか?
アメリカの多少の横暴に我を忘れて「陰謀だ」「奴隷化だ」と喚く前に、今こうして続いているかりそめの平和(世界大戦と比較すれば、今は一応平和だ)を少しでも長く後世に引き継いでいくべきではなかろうか?
もちろん、言うべき事は言ってよい。何でもへいこら従えなどとは言わない。
しかし、「対米対等」と「反米」は似て非なるもの。ことに反日サヨク連中は、意図してこの2つを混同させ日本を滅ぼそうと誘導するからタチが悪い。
保守を自認する者は、こう叫ばなければならない。
「私はアメリカとの協調を支持する。
同時に、アメリカとは対等の関係を期待する。
ゆえに、義務も権利も分かち合うべきである」
アメリカを支持しろ、ではない。
世界ほぼすべてが行っている暗黙の了解、「アメリカ依存」の現実を明確に受け容れるべきだと申し上げたいのである。
そして、その中で互いにとって「よき関係」のために意見が対立する事もあろう。そこはエゴを互いに指摘し合い、変に妥協したり意固地にならず、極力ベターな結論を導けばよい。
「対米、伍して和す」
和こそ日本の本道。
決してグローバルスタンダードに呑み込まれ、奇天烈なパワーゲームに翻弄されてはならない。
憲法第9条改正などが取り沙汰されるが、まずはここの基本……足元をしっかり見据えてからであろう。
あくまで「和する」ためにこそ。
珍しく次回記事の予告など。
ちらっと取り上げたが、いわゆる「マスゴミ」の体たらくについて述べてみようかと思っている。
いや、本当に小泉批判・特定アジア擁護ばかりでウンザリ……産経もここ最近だし、右寄りの見解言うようになって来たのは。
反小泉派諸氏はよく「マスコミは小泉べったり」とか「官邸経由で情報操作している」とか言うが、どの新聞やチャンネル見てるのかと……どこもほとんどコメンテーターは特定アジア派と小泉方針反対の連中ばかりではないかと。
そういう意味では「反・反小泉」の記事になるかもしれない。
あらかじめお詫びしておくものとする。

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