一昔前、「男女雇用機会均等法」すなわち日本社会における男女差別の解消を目指した政策の推進とともに、「フェミニズム」という概念が急速に広まった時期がある。
なにぶん記憶がはっきり定かではないのでおぼろげな話になるが、ちょうど田嶋陽子氏が女性差別問題における論客として注目された時期であったと思う。
時は進んで現代。
政策の場では、「男女共同参画社会」という理想を掲げた社会政策が推進され、セクハラ問題や職業の性差表現(「看護婦」とか「スチュワーデス」とか)などに次々とメスが入っている。
さらには「ジェンダーフリー」なる思想を合言葉に、「男女の扱いを異なったものにするのは差別だ」という定義のもと、「男女差狩り」とでも言うべきものが国策として教育・文化面などで実践されるに至った。
……しかし、ようやく昨今、「男女の差をまったく無視して同一の扱いのみにこだわるのは非現実的だ」という事実に目が向けられ、またジェンダーフリー政策による
「中学で男女生徒の着替えを同一部屋で強制」
「保健体育授業で児童に「セックス」「ペニス」等の単語を連呼させる」
などの極めて異常な実践振りが明かされるに至り、遅まきながら「ジェンダーフリー思想への警戒」「過度な男女差無視の見直し」が行なわれるようになりつつある。
日本の特定アジア外交と同様、少しでも正常化の方向に進みつつあるのは何はともかく喜ばしいものである。
今回は、ひとまず「男女差別」というものの定義を明確にすべく、その本質を追及してみたいと思う。
男女差別、といえばどんなものを連想するだろうか。
人によりいろいろあるとは思うが、だいたいその連想される大部分は「男性による、女性への差別」ではないだろうか。
いわく、「歴史上、女性は政治の道具として利用された」
いわく、「長く参政権も認められていなかった」
いわく、「同じ能力でも男性より仕事の評価が低い」
いわく、「出産・育児に対する偏見で出世できない」
いわく、「男性は女性を見下す価値観を備えている」
こんな感じだろうか?
他にもいろいろあるとは思うが、まあ漠然と列挙すればこのような感じになろうかと思う。
さて、ではこれらについて評価していってみよう。
・「歴史的に女性の身分が低かった」
これについては、確かにそのような時期も多くあったことではある。
とはいえ、日本は歴史的に「奴隷制」や「合法的人身売買」などの文化もなく、また「女性が政治の長となる」事もあったりと、決して他の国に比較しても「女性が虐げられていた」歴史が続いていたわけではない。
・「長く参政権も認められていなかった」
明治期以降の日本はやや男性中心の家長主義社会に傾斜しており、その影響は確かに無かったとは言えない。
ただ、そんな中でも女性の参政権運動は活発に行なわれていて、戦争突入が無ければ女性の政治参加は30年程度早く実現していただろうと思われる。
・「同じ能力でも男性より仕事の評価が低い」
そういう事象があったのは事実であり、これは日本の企業社会の悪しき慣習であったように思う。
これらを是正するために労働基準法が見直され、しっかり法的に男女間の理由無き格差付けが禁じられたのは、喜ばしいことであろう。
・「出産・育児に対する偏見で出世できない」
こちらはやや微妙な話になる。
女性がその生殖機能ゆえ、出産となればある程度の休養期間を要するのはもはや不可避の事実である。
無論、能力に応じた評価はなされるべきであるのだが、その一方で「出産による休養期間」というリスクをあらかじめ織り込んで評価しようとする方法論もあり得るのは確かである。
ただし、もちろんこの場合は「出産等の可能性に対して、個人の評価にあらかじめ組み込む」と事前に明示しておかなければフェアではない。
昔はそのような「情報公開」に関する意識が労使ともに低かったこともあり、特に男女差の点でトラブルや泣き寝入りを生み出してきたのであろう。
現在では、そんな告知を堂々と行なう企業が今時あるとも思いにくい。女性にとっては心強い社会になりつつあるのではなかろうか。
・「男性は女性を見下す価値観を備えている」
これは正直、逆に女性による男性への「偏見」ではないだろうか。
確かにそういう男性はいる。だが、そういった男性はたいがい男性同士の中でも「差別的な人間」として忌み嫌われる傾向にある。
私とて、「女性を見下す」などという価値観とは無縁である。
女性には、男性には無い着眼点や発想があり、また体力では男性に及ばなくとも生命力において時に素晴らしい力を見せる存在だ、と考えている。
むしろ「短所を探して見下してみろ」と言われたとしても、どこをどう見下せばいいのやら困ってしまうくらいである。
さて、ここまでは
実は前振りである。(笑)
私自身は、「男女差別」というのは実は「差別主義的な人間の行なう差別方法の一形態でしかない」のではないかと考えている。
「男女の役割分担」というものは、男女が生物学的にも異なる存在であるゆえにある程度不可欠ではあろう。これに関しては、
・男女の本質を区別した役割分担は、
社会の維持に必要な要件である
・それを無視した役割の押し付け・剥奪は
差別であり、社会の混乱を生む
という「区分け」ができると思っている。
味気ない言い方をすれば、その「区別」が合理的で理にかなっているか、そうでなく単なる印象的な根拠からに過ぎないか、ということになろうか。
この区分けからすると、実は「ジェンダーフリー思想」は「重大な男女差別」にあたるのである。「男女は区別されてはならない」という「役割の押し付け」を行なっているからである。
「女性は何でも男性と同じことができる権利を持っていなければならない」というのが、この思想の根底にある価値観だと思う。だが、これは一見女性を守る発想であるように見えるが、実の所は逆なのである。
男性が女性を同等の存在とみなし、守らなくなったら?
女性が男性を同等の存在とみなし、支えなくなったら?
「守る」「支える」はこの場合、同義語である。逆に表現しても一向に差し支えは無い。
(なぜ同義なのかは、だいたい判っていただけると思う)
まさにこの「悲劇」を地で行ったのが旧ソ連である。
ジェンフリ思想はもともとマルクス・レーニン主義から生まれたものなのだが、これを社会政策レベルで忠実に実行した結果、「男女が家庭を顧みなくなって」危うく家庭崩壊・社会荒廃が蔓延しかけ、慌てて政策を撤廃したのである。
女性に労働力化を半ば強制し、男性を家庭の中心軸と認識させぬようにした結果の、まあ当然の帰結ではあるだろうが……日本が(歴史にまったく学ばず)その轍を危うく踏みかけていた事については、戦慄を覚えずにはおれない。
そもそも、確かに男女問わず「女なら男に従うのが当然だ」などというような差別的意識にあふれた人間は存在する。
が、この手の人間は男女に限らず「ガキのくせに」とか「高卒のくせに」とか「よそ者のくせに」とか、自分を維持するために他者へとにかく劣等のレッテルを貼らずにおれない、いわば「汎的差別主義者」……男女とかそういった枠組とは別に、根本的な部分で
「他者を差別せずにおれない」人間である事が大半ではなかろうか。
そういった根本的差別意識を持ち合わせない、一般道徳をある程度身に付けた人間は、上のようなくだらない差別意識とはほぼ無縁であり、同時に男女差別以外の差別意識も持ち合わせない場合が極めて多いように思う。
ジェンフリ論者とは本質的に何なのか。
私は、要するに「女性の地位向上を口実とした、男性差別論者」なのではないかと思うのである。
自分と価値観の異なる女性に対して「男に媚びるな」と批判してみたり、男性に対して無闇に「どうせお前も女を見下しているんだろう」と決め付けてみたり、いわゆる「自分の価値観を最上として、それと異なる他者を差別」しているのではなかろうかと。
差別が普遍的に存在するならば、労働基準法等のようにその「不合理性」をしっかり衝き、客観的に合理的なものに変えてゆけばよい。
しかし、そうでない「文化的な区別」や「率先しての役割分担」までも「無意識の男女差別だ」「男性による歴史的思想統制だ」などとぶたれたのでは、もはや残るは「男性と女性を生まれながらに手術で同一存在に加工」でもするしか方策はあるまい。非現実的なこと甚だしい。
男性は、男性のできることをやる。
また、女性のできないことをカヴァーする。
女性は、女性のできることをやる。
また、男性のできないことをカヴァーする。
あとは、その役割分担を男女それぞれが「理解」し、「尊重」することが肝要であろう。
「男女差を拒絶」し、「理解を拒み」、「男女それぞれの機能を否定」することは、結局のところ男女の隔絶をしか生まないのである。

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