アメリカ産牛肉輸入再開後、即座に「脊柱の混入」が日本側で発見され再禁輸となったのは皆様の記憶にもまだ新しいところだと思う。
オーストラリアで18日より進められていた日米豪3カ国による閣僚級での戦略対話と並行して、当然に個別の外交案件もいくつか話し合われたわけだが、その中でやはり牛肉問題はアメリカ側からがつんと切り出してきたようだ。
いわく、
・輸入手続き全体を停止しての対応は過剰
・脊柱の混入を見逃した米側検査官は対日輸出の条件を知らなかっただけ
・不適当な商品がただ1つの子牛肉輸出で見つかっただけの「
特異な例」である
いささか腹立たしいまでに傲慢な主張もあるが、「アメリカ流」を差し引いたとしてもこの手の「押し」は外交という要素において多かれ少なかれ「常道」である。
むしろ日本は戦前の昔より、この「相手を探りながら押す」外交が極めて不得手であった。第二次大戦における泥沼の戦争突入の間接的な原因、とも言われるくらいである。
しかし、これに対する麻生外務大臣の理詰めの切り返しは(報道ではさほど強調されていないが)見事であった。日本の首脳級外交に欠けていたものを、少しなりと思い出させてくれそうな錯覚すら湧いてくる。
それも含めて、このお題を中心に日本の「外交」について少し述べようと思う。
まず、ここ数年は国内企業の品質管理・政府の監督機能というものについて疑義が生まれるような事例が(食品に限らず、様々な分野で)多発していたこと。
そして、BSE問題そのものが未だに多くの未解明部分を残した問題であること。
この相乗効果によって、日本国民の間にある程度「疑惑イメージのある食品」への忌避感が生まれているのは否定できない。そして、そのイメージは政府も当然に共有せざるを得ない。
確かにアメリカ牛肉の禁輸によって、少なからず日本の経済には痛手も存在する。国産牛や他国牛肉への切り替えで事が済むような問題ではないし、アメリカに検査コストを要求すれば日本での価格にも当然跳ね返るということもある。
しかし、それでも国民からは拙速な禁輸解除を求める声は大小問わずほとんど上がっていない。
つまり、日本にとって世論レベルでも「アメリカに譲歩してアメリカ牛肉を国内に流通させる」必要性について消極的なのはほぼ間違いない。相互に何らかの約束事や条件があるものならばともかく、そうでない以上は「納得の行く体制が整うまでは…」となるのが日本側の主張となる。
それに対してアメリカが上げたのが序段の3項目。
「日本の対応(全面再禁輸)は過剰だ」「あくまで対日プログラムの不徹底が原因、検査体制は万全だ」「今回の脊柱混入は例外的ケースだ」という主張である。
これへの反論ポイントは以下。
・「過剰」かどうか決めるのは日本国民、日本の消費者である
・「対日プログラム不徹底」こそが重要な問題、再発の原因となる
・目で見て明らかな「脊柱混入」が発生し見逃される状況で、「目で見ても明白ではない」レベルの危険部位混入を滞りなくチェックできる保障は(現段階では)極めて乏しい
少し考えればこれくらいの文面にはなる。
しかし、今回この交渉に対した麻生大臣はなかなか技のある反論できっちりと反撃を行なっていた。時間や対話テーマの限られてくる直接対談でここまで言えるのは、なるほど大したものではないか。
麻生大臣:
「民間施設の問題に加え、米農務省のチェック機能に疑問が生じている。日米が合意した処理システムの信頼性への疑問払拭(ふっしょく)が不可欠だ。そうでなければ米国産牛肉は日本の消費者に受け入れられない」
(引用:産経Web(該当記事は
こちら))
「日本の消費者に〜」というフレーズはまさに「過剰かどうか決めるのは日本だよ」という姿勢を暗に示しているし、「民間施設」「農務省」を具体的に挙げた上で「日米が合意した」「処理システムの信頼性」への「疑問払拭」という形で、明確に「ハード(検査
体制)でなくソフト(検査
運用)をしっかりしろ」という要求を突きつけた形となっている。(アメリカはいまいち理解してないようだが…)
今まではどんなに強気でも「こちらの見解と隔たりが大きい」とか「到底受け入れられない」とかの型にはまった対応しかできていなかったのと異なり、明確に理論を立てて相手の要求の問題点を指摘し、逆にこちらの要求の正当性を補強しつつ主張を投げかけている。内実の点でも、戦前戦後通じて日本外交における稀有な事例ではないだろうか?
まあ、麻生大臣はいわゆる「ネット右翼」間で総理待望論が高く、私も多分に漏れず麻生首相期待派であるから、そのあたり甘い評価になっている部分もないわけではない。過去にはいろいろ問題も起こしている、という見解もある。
しかし、過去の「舌禍」と呼ばれる部類の発言履歴も、現在の視点でよくよく見返してみればまったく「暴言」でも何でもない。当時はまったくもって私自身にメディアリテラシーが欠如していたものだ、と逆に赤面の至りである。
もちろん、国政は一人では務まらない。
麻生氏がいかに期待に応える貴重な人材であろうと、その周囲を固めるのは確実に現在の自民党議員達である。麻生氏に限らず、次期首相には「他の人材を活用する能力」「人材配置を繊細かつ大胆に実行する能力」が問われる。
だが、このような閣僚会談での毅然としてかつ果断な発言力を見るにつけ、専門外分野でやや弱い面を見せる安倍氏や、立ち回りに汲々として国民・国政への責任感が見えてこない福田氏、独自の政治ビジョンよりも所属派閥の論理で動きそうな谷垣氏、他とっくに役目を終えた中華の回し者達などと重ね合わせても「資質比較」においては一歩も二歩も抜きん出ている。
ちなみに、一般の国民人気という点では完全に安倍氏が麻生氏を圧倒的にリードしている。
ただ、拉致問題が政府内で盛り上がらなくなって以降の安部氏には以前のような精彩がやや欠けているのも確かである。首相ともなればますます「拉致だけでなく政策全般」への気配りを要求されるわけであり、その意味でも多面的にものを見る能力に長けているのが伝わってくる麻生氏が「小泉路線の後継」、特に外交・信条面において日本の現方向性を引き継ぐのはかなり望ましいことではないだろうか。
安部氏も悪くはない。悪くはないのだが、何かどうにも本人自身に「自信の無さ」を感じてしまうのがここ最近の困った雰囲気ではある。
日本は、歴史的に外交の「成果」を「突出した才能」に依存してきた。通常レベルの人材による外交が「右肩上がりの成果」を出したことは、残念ながらない。
もちろん外交に長けた人材の長期輩出をばっさり諦めてしまうというわけにはいかないが、今ここにある「稀有な人材」は、今後の日本外交に確かな国益への道筋を付けるべく、獅子奮迅の活躍を期待させてもらいたいものではある。
それら「突出した才能」が活躍することで、それを「目標」とする意識が社会に生まれ、ゆくゆくは「外に通用する人材」の輩出を導くであろうから。
「きっかけは安倍」、「きっかけは小泉」。
次は、いよいよ「きっかけは麻生」で行ってもらいたいものである。

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