永井荷風の外祖父である鷲津宣光(毅堂)について記そう。
鷲津宣光(わしずのりみつ)は、文政8年(1825)尾張国丹羽郡丹羽村で生まれた(現一宮市丹羽)。幕末に尾張藩校明倫堂督学となった儒学者である。字は重光、通称郁太郎、号は毅堂(きどう)。宣光の曾祖父は医師で文人でもあった幽林である。幽林は学舎「有隣舎」の基礎をつくった。父は幽林の孫の益斎(通称徳太郎)である。
天保13年(1842)父が39歳の若さで死去。3年後の弘化元年(1844)母から家の再興を勧められた。母が着衣の襟裏に縫いつけた紅白の小布を形見として、伊勢安濃津の猪飼敬所に学んだ。しかし宣光は学半ばにして尾張の家に帰ってきたが、母は中江藤樹の母の故事にならって、家を閉ざして入れなかったという。
その後、宣光は弘化2年(1845)江戸に出て昌平黌に学んだ。元治元年(1864)40歳で帰郷する日まで、約20年間、母と会うことがなかった。
嘉永3年(1851)宣光は『聖武記採要』を刊行した。清の武備の不備を説いた魏源の『聖武記』の抄録で、宣光は自序の中で「辺彊ノ責ニ任ズル者能ク是篇ヲ熟読し……」とし、日本の現状とを重ね合わせている。しかし、この出版は町奉行所の咎めるところとなり、いったん房総半島に退避している。
嘉永5年(1852)結城藩校の教授となったが、まもなく辞任。嘉永6年(1853)ペリーが浦賀に来ると、『告詰篇』を水戸藩の徳川斉昭に献呈した。徳川家定将軍宣下式のため勅旨が江戸に来るのを機に、藤田東湖・藤森弘庵らと攘夷の詔勅を幕府へ下させようと画策したが、これを機会として松浦武四郎・吉田松陰と親交を結ぶ。この年、宣光は、上総国久留里藩に招かれ10人扶持を得た。
嘉永7年(1854)中津藩家臣の女佐藤みつと結婚、安政2年(1855)には精一郎が生まれたが、安政5年(1858)にみつは疫病のため死去した。宣光はやがて中津藩士の女川田美代と再婚し、2人の間に長女友、2女恒ら3男2女が生まれた。この2女の恒が宣光の門人永井匡温(まさはる、久一郎)と結婚、のち永井荷風を生むことになる。
宣光は、安政元年(1854)居を下谷御徒町に定め、そこで塾を開いていたが、慶応元年(1865)尾張藩の招きに応じて、明倫堂教授になるため一家で尾張名古屋に移住した。宣光は、慶応2年(1866)20人扶持から150俵と増給になり、当時7歳の藩主徳川義宜の読書相手および侍講となった。明倫堂教授から督学に昇進した宣光は、村々を巡回し村民に講義を聴かせ、校内に他藩の学生の寄宿を許し、武術を盛んにするなどの改革を行った。慶応3年(1867)徳川慶勝に従って京都に赴き、幕府と薩長諸藩との間をとりもっている。
慶応4年(1868)明治新政府の徴士となり、明倫堂督学を辞任した。その後、太政官権弁事、大学校少丞を経て、陸前国登米県(宮城県の一部)の権知事となり、明治3年(1870)登米県と石巻県の合併にともない、県知事の任を解かれ、明治4年(1871)以降明治15年(1882)まで司法省に出仕した。
晩年、儒者とグループを組んで毎月詩筵を開いた。その仲間に三島中洲、川田甕江、重野成斎、中村敬宇らがいた。明治14年(1881)学士会の会員になったが、胃癌のため翌15年(1882)58歳で死去した。神式の葬儀が行われ、明治16年(1883)門人らが向島白鬚神社にその頌徳碑を建て顕彰している。

毅堂鷲津宣光(きどうわしずのりみつ)

有隣舎(ゆうりんしゃ)石標。一宮市丹羽。

谷中霊園の毅堂の奥津城(中央)、神式。

宣光の墓碑 毅堂鷲津宣光、「行書五絶山水圖讃」

向島自鬚神社に建てられた鷲津毅堂の頌徳碑。

1