大学生の頃、友人の影響で多くの現代詩人の作品に接した。その中のひとりに永瀬清子がいた。『短章集』という作品に感銘を受けた覚えがある。一種の散文詩であるが、女性の生活感を時代のあり方と重ねて表現した作品であった。言葉の背景にある生の人間の存在感が際立っていた。
永瀬清子は、明治39年(1906)岡山県赤磐郡豊田村(現在の赤磐市熊山)に生まれた。父の永瀬連太郎は、京都大学工学部在学中に結婚をし、卒業後、金沢電気会社技師長として金沢に赴任した。2歳の清子も両親と共に金沢に移り、石川県女子師範学校附属小学校、県立第二高等女学校に学んだ。幼い頃の清子は、図書館の児童室で手当たり次第に本を読みふけったという。女学校上級の頃には、上田秋成や泉鏡花などの作品に傾倒したそうだ。卒業後、私立北陸女学校補修科へ進学したが、大正11年(1922)、清子16歳の時に父が名古屋市電気局へ転任となり、一家(両親、清子、妹3人、弟の6人)は、名古屋に転住した。
翌年、清子は、愛知県立第一高等女学校(現在の明和高校の前身)に入学する。原書で英文法・歴史・地理などを学び、厳しく鍛えられた。同時に清子は上田敏の詩に傾倒し、詩の道を志した。それを知った恩師の吉岡千里が、その友人宮川哲郎とともに彼女を指導し支えたという。また大正13年(1924)には、佐藤惣之助に師事、惣之助の主宰した「誌之家」の同人となっている。
第一高女卒業後、昭和3年(1928)21歳で、東京大学法学部を卒業した長船越夫と結婚し大阪に住むことになるが、弟が夭折したため、清子が家督を継ぎ、養子縁組をしている。
昭和5年(1930)処女詩集『グランデルの母親』を刊行した。その後、東京に移り、北川冬彦主宰の「時間」の同人となる。高村光太郎や柳田国男らの知遇を得て詩作に没頭し、宮沢賢治の研究にも力を入れた。
昭和15年(1940)年、第2詩集『諸国の天女』を発刊。
戦後、昭和21年(1946)、母のいる故郷岡山県の熊山町へ疎開して、初めて農作業に取り組む。
昭和24年(1949)その功績が認められ、第1回岡山県文化賞を受賞する。
昭和27年(1952)には、詩誌『黄薔薇』を主宰し、創刊する。
昭和38年(1963)には、世界連邦岡山県協議会事務局に勤務し、昭和40年(1965)岡山市南方に転居した。
昭和44年(1969)「女人随筆」を主宰する。この成果は後に『すぎ去ればすべてなつかしい日々』という自伝エッセイに結実する。その後、赤松常子賞、中国文化賞、山陽新聞賞(文化功労)などを受賞する。
昭和57年(1987)岡山県詩人協会会長に就任する。
昭和62年(1987)81歳の時に詩集『あけがたにくる人よ』を刊行し、地球賞を受賞。翌年にはミセス現代詩女流賞を受賞する。
平成7年(1995)89歳で逝去する。
*清子の生まれ故郷の赤磐市が現在遺品を管理し公開している。
http://akaiwanp.fc2web.com/nagaekiyoko.htm
「あけがたにくる人よ」 永瀬清子
あけがたにくる人よ
ててっぽっぽうの声のする方から
私の所へしずかにしずかにくる人よ
一生の山坂は蒼くたとえようもなくきびしく
私はいま老いてしまって
ほかの年よりと同じに
若かった日のことを千万遍恋うている
その時私は家出しようとして
小さなバスケット一つをさげて
足は宙にふるえていた
どこへいくとも自分でわからず
恋している自分の心だけがたよりで
若さ、それは苦しさだった
その時あなたが来てくれればよかったのに
その時あなたは来てくれなかった
どんなに待っているか
道べりの柳の木に云えばよかったのか
吹く風の小さな渦に頼めばよかったのか
あなたの耳はあまりに遠く
茜色の向うで汽車が汽笛をあげるように
通りすぎていってしまった
もう過ぎてしまった
いま来てもつぐなえぬ
一生は過ぎてしまったのに
あけがたにくる人よ
ててっぽっぽうの声のする方から
私の方へしずかにしずかにくる人よ
足音もなくて何しにくる人よ
涙流させにだけくる人よ
( 詩集『あけがたにくる人よ』思潮社刊 昭和62年)

昭和15年2月 神保光太郎詩集『鳥』出版記念会にて。
中列左 保田與重郎 前列左より 亀井勝一郎、永瀬清子、照井瓔三、大木惇夫、神保光太郎、萩原朔太郎、北川冬彦、丸山薫

昭和5年 昭和44年

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