「多奈波太神社」を過ぎて、さらに堀川沿いに上っていくと金城橋にいたる。ここは、東大手の枳穀坂を下って南から伸びている柳原街道と交差する地点である。橋を渡り南に少し行くと柳原の商店街に入る。もう一つ南の信号を右に曲がり、一筋目を南に行くと住宅街の中に「長栄寺」がある。
「長栄寺」はもともとは東郷村諸輪にあったもので、奈良時代の僧で“越の大徳”とよばれ白山を開山した名僧として著名な“泰澄”を開祖とした古刹であった。長い間、廃寺になっていたものを、尾張藩より招請を受けた“豪潮寛海”が、文政6年(1823)この柳原の地に「金城鬼門鎮護祈願所」として再興したものである。“豪潮”はそれより先、文化14年(1817)藩主徳川斉朝のたっての招きで来往している。斉朝が重病の際、“豪潮”の祈祷により全快したと伝えられる。
“豪潮”は熊本の出身で6才で僧籍に入り、16才で比叡山に登り修行する。一食一菜、三衣一鉢で難行苦行を行い、顕密二教の蘊奥を極めたという。その徳は遠近に聞こえ“活き仏”といわれた僧である。87才で名古屋大杉で没した。「豪潮さん」といわれて世人に親しまれた有徳の僧であった。“豪潮”の遺骨は、昭和55年、北区大杉の「一願山不動院豪潮寺」に奉安された。また、文政年間に造られた「豪潮律師等身大座像」も同じく豪潮寺へ移安された。長栄寺は昭和20年5月14日の空襲で焼けたが、門は焦げて残った。柱と桁の接合部分に燃え残り跡が有る。
*一願山不動院豪潮寺
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「柳原通」の看板が「通原柳」と右から書いてある。いつ頃作られたものなのだろうか。

昔ながらの八百屋さんの店先だ。柳原商店街にはこんな庶民的な店が多い。

長栄寺は、現在は動物慰霊の寺としても知られている。

柱には、戦災にあった時の焼け痕が残っている。歴史を伝える貴重な資料である。この焼け痕を心に刻みつけておこう。

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