イサム・ノグチは、1904年アメリカのロサンゼルスで、母レオニー・ギルモアの私生児として生まれた。父親は、英米で詩人として名を馳せたヨネ・ノグチ(野口米次郎)である。この時、ヨネ・ノグチは、すでに日本に帰国しており、イサムが2歳で母に連れられて来日するまで顔を見ることもなかった。親子3人での暮らしも長くは続かず、結局は母子でくらすこととなった。しかし、母が建てた茅ヶ崎の家での生活は、イサムの芸術家としての土壌をつくっていくことになる。イサムは、後に「子供時代を、自然の変化に敏感な日本で過ごしたのは幸運だった。日本ではいつも自然が身近だった」と語っている。その一方で、混血児への差別にも苦しみ、孤独な少年時代であった。
孤独感を強めていくイサムに、母はアメリカの全寮制学校への進学を薦める。13才で単身渡米し、母の姓イサム・ギルモアと名乗り入学したが、その学校は、経営上の理由から1ヶ月で閉鎖されてしまう。身寄りのない土地に突然一人ぼっちで放り出されてしまったイサムは、迎えに来れない母に対してさえ不信感を抱き、心の傷を深める。しかし、1ヶ月間の学校生活でイサムは木彫りの天才少年と呼ばれていた。
そんなイサムを援助してくれたエドワード.A.ラムリー氏のおかげで無事高校を卒業し、コロンビア大学で医者を目指すが、母の薦めで美術学校にも通うこととなる。そこで「ミケランジェロの再来」と賞され、入学3ヶ月目には個展を開いたイサムは、彫刻家として生きることを決意する。このときから「イサム・ノグチ」を名乗っていく。憎しみの反面、東洋と西洋の融合を追及した父への畏敬の念が含まれていた。
その後、イサムはグッゲンハイム奨学金を得てパリへ留学する。巨匠コンスタンティン・ブランクーシの助手をしながら抽象彫刻を学んだ。しかし、パリから帰国して製作したイサムの抽象彫刻は、まったくといっていいほど評価を得られなかった。
一方、生活のため請け負った具象である頭部彫刻は絶賛され、それらを売った金で東洋への旅に出る。終着点は日本であった。1931年、ノグチ姓を名乗っての来日を許さなかった父と12年ぶりに再会を果たす。憎しみは幾らかおさまるが、やはり理解し合えない。イサムは京都を訪れて日本の美をあらたに吸収し帰国する。日本にいればアメリカ人、アメリカにいれば日本人と見られるイサム。どこにも帰属しない孤独感は増すばかりであった。
この時期、イサムは「未来の彫刻は地球そのものに刻み込まれる」と思いつく。公共空間・環境芸術などという言葉はまだ聞かれない時代に、イサムのプランは受け入れらず、模索の日々が続く。
1941年12月8日の真珠湾攻撃を機に日米が戦争に入り、日系人や2世という存在に目が向けられるようになったとき、イサムはそこに帰属の場を求めようとした。自らアリゾナの日系人強制収容所に入り、同志として理想のコミュニティづくりに関わろうとする。しかしそこにもイサムの居場所はなかった。志半ばで退去し、ニューヨークで彫刻制作に専念する。
戦後の1950年、奨学金を得てイサムは再び日本行きを決意するが、第二次世界大戦と日本での辛い幼児体験が彼を不安にさせた。しかし戦争は、イサムと日本の人々との関係を驚くほど良好にしていた。イサムは既に亡くなっていた父の遺族と生活を共にし、父や日本の人々に抱いていた隔たりが徐々に消えていった。(父ヨネ・ノグチは、臨終に際して、子どもたちに異母兄のイサムの存在を知らせ、兄弟として接するよう遺言している)
当時、慶應義塾大学の校舎の復興にあたっていた東京工業大学の谷口吉郎から、イサムへ慶應義塾のために何か作るよう示唆されるのはちょうどこの頃である。イサムは、ノグチルームと呼ばれる野口米次郎記念館<新萬来舎>の製作にあたり、以前から興味を持っていた京都の庭園の要素を取り入れ、「魂を奮いたたせ喜びをもたらすような素晴らしい模範的な場所」にすることを目指した。
<無>と名付けられた円環のような彫刻は、禅用語で何もないことを意味し、穴を通して夕日を囲むことができるように設計された。彼は、そのころできた新しい友人たちに次のように語っている。
「現代的であるということは、われわれを模倣することを意味しない。それは自分自身であるということ、自分自身の根っこに目を向けるということである」と。
環境との結びつきを重視した象徴的な造形は、西洋近代の造形感覚に東洋的精神性を融合させたものと評されている。戦後の社会や文化の復興を目指す日本で予想以上の熱い歓迎を受け、その後の生涯を通じ、日本を拠点にした精力的な活動を行うことになる。

イサム・ノグチ

「新萬來舎」の作品「無」を制作するイサム

「新萬來舎」に設定された「無」

ドウス昌代による評伝「イサム・ノグチ」−宿命の越境者−

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