世界に名を知られた詩人ヨネ・ノグチこと野口米次郎は明治8年(1875)に愛知県海部郡津島町(今の本町四丁目)に生まれた。6歳から英語を学び、明治22年(1889)に愛知県立中学校(後の愛知一中、現旭丘高校)に入学した。そこで、「ザ・セカンド・ナショナル・リーダー」を学ぶ。
明治23年(1890)愛知県立中学校を退学し、四日市から船で上京し、京橋磯長邸に寄寓する。神田の成立学舎(私立中学)に入学し、マコ−レの「ヘスチング」伝の講義を受けて、文学へ目覚めた。その後慶応義塾に入るが、英米文学に夢中になり、慶応義塾は退学する。志賀重昂の家に寄寓していた時、たまたま来客の菅原伝(後の政友会幹部)が北米事情を語っていたのを聞き、渡米を決意する。
18歳で渡米し、彷徨の末、詩人ウォーキン・ミラーの知遇を得てから才能を開花させた。明治29年(1896)、詩集 『Seen and Unseen』、翌年『The Voice of the Valley』を刊行。明治35年(1902)ロンドンに渡る。翌年、ロンドンで『From the Eastern Sea』を出版して英米文壇に認められた。石川啄木もこの詩集に感銘を受け、明治37年1月1日の岩手日報に「詩談一則《『東海より』を読みて》」を発表し、野口に宛て書簡を出している(明治37年1月)。
明治37年(1904)帰国、明治39年(1906)慶応大学文学部に英文学科が新設され主任教授となる。この年、アメリカでの詩作のパートナーであったレオニイ・ギルモア女史が、息子イサム・ノグチを伴って来日する。イサム・ノグチについては別稿で取り上げることにする。
野口米次郎は、詩を作るほか、芭蕉を初めとする日本の詩や、浮世絵の美しさを世界に紹介した。大正元年(1912)、オックスフォード大学で講演(The Spirit of Japanese Poetry)。中国・インドでも日本芸術について講演した。日英文で多くの詩歌・評論がある。
昭和22年(1947)病没。神奈川県藤沢常光寺に葬る。
詩人萩原朔太郎はかって次のように述べたことがある。「要するに野口米次郎は、全体として完全は外国人である。氏が日本に国籍を有するのは、あたかも外国生まれの母国観光団が、母国の言語も習慣も知ることなしに、しかも純粋の日本人として街上を歩いているようなものである。しかるにこれは「我々の側の観察」であって、西洋人の観察は全然これに反対している。西洋人の見るところによれば、野口氏は日本人の代表であり、その容貌、その芸術、その思想、共に純粋に日本的なものを象徴していると思惟されている。」

東中野の自宅にて 昭和15年頃

詩集『From the Eastern Sea』

ニューヨークのヨネ・ノグチに宛てた石川啄木の手紙

昭和16年 詩人懇話会第3回詩賞選考会。前列左から、北原白秋、河合酔茗、ヨネ・ノグチ、佐藤春夫、前だ鉄之助、後列左から、福士幸次郎、大木敦夫、西条八十、春山行夫、堀口大学、佐藤惣之助。

津島天王川公園の中之島にある「野口米次郎」の銅像

米次郎の生家(津島市本町)。

藤沢の常光寺に眠るヨネ・ノグチ

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