反骨の詩人と評された金子光晴は、明治28年(1895)、愛知県津島市日光町で大鹿和吉の三男として生まれた。本名は安和。一家は代々日光川の船着場で酒屋と廻船問屋を営んでいたが、濃尾地震で持船のほとんどと酒蔵を失い破産した。その後、名古屋市小市場町甲80番戸(現在の中区栄町)の沢田むめ方に落ち着き、再起をはかる。
光晴はひ弱な子で、沢田むめに女装させられることが多く、その稚児ぶりが建築業清水組名古屋出張店主任をしていた金子荘太郎の若妻須美の目にとまり、養子となる。須美の愛玩物のような扱いを受け異様な幼児体験をした。荘太郎は、間もなく京都ついで東京に転勤になり、安和は、京都の銅駝尋常小学校を卒業、東京の泰明高等小学校を経て、明治41年(1908)私立暁星中学校に入学した。
大正3年(1914)早大高等予科文科に入学。翌年早大を中退し、東京美術学校日本画科に入るが、すぐに退学。慶応義塾大学文学部予科にはいるが、ここも翌年退学。
大正6年(1917)養父が亡くなり、多額の遺産を相続するが、第一詩集『赤土の家』の自費出版や最初のヨーロッパ旅行で使い尽くす。
大正12年(1923)フランスの最新の詩法をとりいれた『こがね虫』を新潮社より刊行。光晴を名乗る。
大正13年(1924)御茶ノ水高師の女学生だった森三千代を妊娠させてしまい、結婚。大正14年(1927)訳詩集『ヴェルハァラン詩集』・『近代仏蘭西詩集』を刊行。
昭和3年(1928)長男乾を妻の実家に預け、美千代を伴い、約5か年にわたる東南アジア・ヨーロッパ放浪の旅に出る。考えられる限りのアルバイトをしてパリで食いつなぎ、シンガポール、マレー半島をへて昭和7年(1932)帰国。この間の体験は『マレー蘭印紀行』にまとめる。このあとの時代の趨勢となる国家社会主義体制に対する反抗を秘めた『鮫』を発表し、高い評価を受ける。
戦中に書きためた抵抗詩と評された作品は、戦後昭和23年(1948)『落下傘』『蛾』昭和24年(1929)『鬼の児の唄』として刊行される。
昭和27年(1952)詩集『人間の悲劇』で読売文学賞受賞。昭和32年(1957)自伝『詩人』を刊行。晩年は性体験を赤裸々に語る奇矯な老人としてマスコミにもてはやされる。 昭和46年(1971)年から5年間の海外放浪を回顧した『どくろ杯』、『ねむれ巴里』、『西ひがし』の三部作を刊行。
昭和50年(1975)6月30日、急性心不全で死去。80歳だった。
私が、金子光晴の詩の中で一番好きな作品は、昭和12年(1937)光晴43歳の時に発表された『洗面器』である。戦後、昭和24年(1949)刊行された詩集『女たちエレジー』に所収される。
洗面器
(僕は長年のあひだ、洗面器といふうつはは、僕たち
が顔や手を洗ふのに湯、水を入れるものとばかり思つ
てゐた。ところが、爪哇人たちは、それに羊や魚
や、鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとた
たへて、花咲く合歓木の木陰でお客を待つてゐるし、
その同じ洗面器にまたがつて広東の女たちは、嫖客の
目の前で不浄をきよめしやぼりしやぼりとさびしい音
をたてて尿をする。)
*爪哇人(ジャワじん)、羊(カンピン)魚(イカン)
洗面器のなかの
さびしい音よ。
くれていく岬(タンジョン)の
雨の碇泊(とまり)。
ゆれて、
傾いて、
疲れたこころに
いつまでもはなれぬひびきよ。
人の生つづくかぎり。
耳よ。おぬしは聴くべし。
洗面器のなかの
音のさびしさを。

明治30年。金子家の養子となった光晴。左端、養父荘太郎。

明治37年。小学校3年生の時。乳母と。

暁星中学校3年時。叔父と。学校にほとんど行かず留年。

大正8年。25歳。処女詩集『赤土の家』刊行記念兼渡欧送別会。
前列左から2人目。


大正12年刊。 昭和23年刊。

昭和6年、パリ・シャンゼリゼ通りで。右端、光晴。中央、森美千代

戦後まもなくの銀座での金子光晴

昭和48年刊。 光晴の絵「モンマルトル」

昭和40年71歳。左から長男乾、孫若葉、光晴、乾夫人、森美千代

八王子市上川町、上川霊園にある光晴の墓
*参考資料「現代詩読本3 金子光晴」思潮社(1979年)

6