「羊神社」のある場所は「辻町」である。「羊→火辻→辻」と変化したといわれるが、実際にはよくわからない。いつごろ字(あざ)名として使われ始めたのか今度調べて見よう。
ところで、黒川に沿って辻本通り(つじほんとおり)が走っている。志賀橋からしばらくは稚児宮通りであるが、途中から辻本通りとなり、三階橋に達する。この道路を地元の人は、「防衛道路」(弾丸道路)と呼んでいる。旧国道41号線で、名古屋−犬山線とも呼ばれる。途中小牧基地、そして犬山を越えて岐阜基地へ繋がる。戦後、米軍が小牧基地を接収した際、他の道路に先駆けてこの道路の舗装を優先し、国庫の防衛分担金6000万円(昭和28年当時)が投入されて昭和29年に完成した。このことから「防衛道路」という呼称が使われるようになったのである。
江戸時代に名古屋から犬山に行く道は、「稲置街道」と呼ばれ、清水から現在の「黒川橋」を突き抜け、安井から、味鋺の渡しを経て、春日井−小牧−楽田へ至り、ここで稲置(犬山)へ行く道と善師野を経て今渡から中山道に合流する道に分かれる(これが上街道で尾張藩の公用道路であり、宿駅や一里塚なども整備されていた。木曾街道ともよばれる)。
明治10年(1877)の黒川が開削された時に、併せて黒川の川岸が道路として整備され、翌11年(1878)には水分橋もかけられた。この新しい道が「犬山街道」と名づけられ、「稲置街道」のバイパスとして利用され始めた。日露戦争(1904〜5)の頃から小牧〜清水口の乗合馬車が運行されるようになり、黒川の岸を馬車がトコトコと走ったのである。大正7年(1918)には乗合自動車が小牧〜大曽根を、昭和6年(1931)には今の名鉄小牧線が開通して、気動車(ガソリンカー)が犬山〜上飯田を結ぶようになった。ちなみに電化されるのは、昭和17年(1942)である。
一方都心に近い北区内では、大正元年(1912)から都市化に向けて区画整理が始まった。同時に、昭和の初期になると、黒川西岸地域では耕地整理組合や区画整理組合が設立され、将来の発展のために道路や公園などの整備が進められた。このなかで「辻本通り」の建設が行われ、敗戦までに工事は相当程度進捗していたが完成までにはいたっていない。そして、戦後になって「防衛道路」として開通するのである。

「稲置街道」と「犬山街道」 明治期の地図。

赤線部分が辻本通未整備部分。これが戦後、防衛道路となる。辻村の区画整理がずいぶん進んでいるのがわかる。
黄線部分は川上絹布工場
昭和5年の『最新名古屋市街全図』

名鉄小牧線に使用された気動車(ガソリンカー)。
偶然であるが「川上絹布工場」の場所が、はっきりと記されている地図に出会った。
「川上絹布株式会社」は、川上貞奴が大正7年(1918)に作っている。
社内では15、6歳から20歳まで、40〜50人の女工が働いていた。作業は45分続き、15分休むというスタイル。女工たちはみな、紺のセーラー服に靴を履き、女学生のような格好で働いていた。昼休みの運動にはテニスをし、工場の中にはプールまであったという。また、全員が寮で生活をし、夜にはお茶、お花、和裁などの習い事、休日には演芸会などのレクリェーションを開いていたという。厳しい労働と安い給料で酷使されていた当時の女工の待遇から考えると、夢のような生活を送ることのできる、まったく新しい会社であった。「川上絹布工場」で作られた絹製品は最高級の品質で、フランスなど海外へ輸出されている。「文化のみち二葉館」に、「川上絹布」で作られた座布団や布団が保存されているので現物を見ていただくと良い。場所的には新堀橋の東側になるかと思う。愛知調理専門学校のあるところでしょうか。花散里さんもそう指摘されていましたね。

新堀橋から辻栄橋方向を眺める。 二葉館にある川上絹布製座布団

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