北清水橋の下は、「親水広場」となっている。ここは、かつて黒川の船着場だった所だ。すぐ上流には小さな黒川橋がかかっている。黒川橋の上の通りは、清水から犬山に抜ける「稲置街道」である。北清水橋の上は、現在は国道41号線が通っているが、41号線は戦後に整備されたもので、当然ながら黒川が開削された頃はまだ道路そのものがなかった。
明治17年(1884)、黒川治愿(はるよし)により、犬山・名古屋間の用水が開削・整備されたのち、明治19年(1886)、犬山・名古屋間を船で結ぶ「愛船株式会社」が設立された。その年の9月の末に開業式が犬山の木津用水元杁(取水口)前で行われた。来賓一同を乗せた舟が、木津用水を下り、大口町の中小口で新木津用水に入り、春日井の朝宮公園の先で八田川に合流して庄内川へ出た。水分橋の前を横断して庄内用水の元杁から庄内用水(黒川)へ入り、一番の難所といわれる矢田川の伏越(水路トンネル)を経て辻町に出る。さらに南西に下り、お城の北から西を経て名古屋都心の納屋橋に到着する。一行は堀川西岸にある料亭「得月楼」で祝宴を張ったと当時の記録に残されているそうだ。
*「得月楼」は、文政11年(1828)に開業。頼山陽がこの店に遊び、堀川に映った月を眺めて作詩した一節から「得月楼」と名づけられたという。現在は料亭はないが、「若菜」という漬物屋に受け継がれている。
「愛船株式会社」で使用した船は、“べか舟”と呼ばれた底の浅い舟で、船頭が竿で船を操り進めていた。犬山から名古屋へは流れとともに下るので容易であったが、帰りは数隻の舟をつないで一人の船頭が船を操り、他の者は先頭の舟に結んだロープを岸から引いて行ったという。人を乗船させたほか貨物も運び、主な積荷は、薪や炭、米や麦、木曽川の河原で採取された丸石、犬山で造られた天然氷などであったという。 船賃は乗客1人7銭、米などの荷物は1俵3銭5厘。この頃の活版植字工の日当が上級15銭、下級10銭であったそうで、乗客の場合日当の半額程度の運賃であった。行き来する船のために、航路の所々に船着場が設けられ、荷物の積み下ろしや船頭の休憩する茶屋などがあった。
犬山と名古屋の交通と流通を大きく改善したこの航路も、明治35年(1902)には名古屋と犬山を結ぶ定期乗合馬車が運行されるようになり、大正元年(1912)には名古屋電気鉄道が犬山まで開通して徐々に利用が減り、ついに大正13年(1924)には38年間続いた「愛船株式会社」の運航は廃止された。

名古屋高速下の北清水橋。

黒川ジャンクションの何重にも重なったループの下を流れる堀川。

親水広場。かつての船着き場である。

向こうに見える橋が、旧稲置街道に架けられた黒川橋。

千葉県浦安の“べか舟”。

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