長栄寺の二筋南を西に行くと「深島神社」がある。深島はこの地の古名である。かつてはこのあたりは矢田川の氾濫原であった。名古屋城が築城される前は、沼や沢のある大地に柳が多く茂っていたことから柳原と名づけられたという。
「深島神社」の祭神は、「多岐理比売命(タキリヒメノミコト)」である。宗像(ムナカタ)三女神の一神である。この地が海辺にあり、古代海人(あま)族が居住したことの名残りかと思われる。
海部(アマベ)や安曇(アズミ)という地名や人名は、古代海人族と関連している。特に尾張は海人族との縁が深い所である。近くの黒川交差点の北に「綿神社」があるが、海神(わだつみ−綿津見)に通じる「綿」であると思われる。“ワタ”というのは古代朝鮮語で“海”のことである。このあたりには、志賀貝塚もあり古代には海が深く切り込んでいた場所であった。
「深島神社」は、江戸時代には名古屋の三弁天の一つとして、藩主初め民間の信仰を集めた。弁財天は七福神の中の紅一点で、一切の衆生のために愛福をさずけるというヒンズー教の神様で、元来、インドの河神であることから、日本でも水辺、島、池など水に深い関係のある場所に祀られることが多い。日本では海神・水神の「多岐理比売命」になぞられた神である。室町時代の中期より信仰の対象となって広まった。また、弁才天の「才」の字が「財」に通じることから財宝神としての性格をもつようになり、「弁財天」と書かれることが多くなる。
なお「深島神社」は名古屋城の鬼門の守護神としても崇敬され、往時は2000坪の境内地を持ったというが、徐々に規模を縮小し、昭和20年の戦災で本殿や宝物を焼失した。現在の本殿および社務所は昭和27年に再建されたものである。

深島神社の境内と社殿。


由緒書。

初代藩主徳川義直の命を受けて、神主三谷左内が木曽山中で厳修の上、神社に安置されたという言い伝えを持つ霊石。

“さざれ石”が置いてある。“さざれ石”というのは、石灰質角礫岩という種類の石である。石灰石が長い年月に雨石で溶解され、粘着力の強い乳状液が小石を凝結したものである。

1