三郷ゲートの角を東に曲がり、桜並木を直進すると城北橋に出る。途中、下水処理場の排水ゲートから勢いよく下水処理水が吐き出されているすぐ下で鴨の群が悠々と泳いでいる。岸辺で日向ぼっこしている優雅な鴨もいる。
城北橋にたどり着くと下水処理場の隣に「下水科学館」という博物館ができている。「下水科学館」の入口前にはいろいろなモニュメントがあり、ボタンを押すとメロディーを奏でる噴水もある。
科学館の中を見学すると下水の歴史が展示してあるコーナーがあり、また新しいことを勉強した。日本の下水事業の生みの親は、イギリス人のW.K.バルトンであることを初めて知る。
バルトンは、1856年(安政3)スコットランドのエジンバラで生まれた。日本政府の招聘に応じてイギリスから明治20年(1887)に来日。帝国大学土木工学科衛生工学講座の初代教授に就任し、翌年から内務省衛生局顧問技師を兼任した。着任以来明治29年(1896)に辞任するまでの9年間に多くの専門技術者を育成し、上下水道事業推進のための人的基盤の礎石となった。さらに、自ら陣頭に立ち、主要都市の上下水道の設計計画および工事の指導に当たった。
また、バルトンは、わが国写真界への貢献も大きい。日本写真会創設にも尽力している。写真の分野で土木工学へ貢献した功績の一つに、明治24年(1891)10月28日に勃発した濃尾大震災の記録写真がある。バルトンは、誰よりも早く震源地に乗り込み、根尾谷の大断層の写真を撮影した。これが日本最初の断層写真である。撮影した記録写真は、写真集『日本の大地震・1891』と題して発刊され、ヨーロッパにその惨状を伝えた。そして、バルトンは、「浅草十二階」の設計者としてもその名を知られている。教育者としてもまれにみる資質の持ち主で、理論のみに流されないよう、常に地域性重視の姿勢の重要性を説いた。明治27年(1894)に「都市の給水と水道施設の建設」というタイトルの専門書を発刊している。
名古屋の下水事業も明治26年(1893)時の市長志水忠平が、バルトンに調査を依頼したことから始まる。同氏は翌27年に上水道については、入鹿池を水源とする案を提出している。その後、明治35年(1902) 愛知県技師の上田敏郎に上・下水道工事の調査を委ね、明治41年(1908)工事が開始された。大正元年(1912) はじめて下水道の供用が開始された。昭和5年(1930)には、堀留下水処理場と熱田下水処理場が完成し運転を開始している。

名古屋市下水科学館 子供がメロディー噴水で遊んでいる。

下水科学館の中。下水管を展示室の入口に使用している。


バルトン 珍しい和服の写真。

根尾谷の大断層

「浅草十二階」(凌雲閣)

城北橋

城北橋から西側を眺める。中央白い部分が下水処理水の排水口。

下水処理水の排水口


排水口のすぐ下で鴨たちが泳いでいたり、休んでいたりしている。

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