筋違橋から堀川は北東に方向を変える。堀端橋(ほりばたばし)から南を見ると町屋の向こうに名古屋城の天守閣が見える。そのまま歩いていくと堀端に出る。東に少し歩き、名城公園に入り、御深井池の周りのウォーキング・コースを時計回りに歩いて行き、御深井池の北側に出てお城を眺めると噴水の向こうに見事に天守閣が聳えている。私が思っている名古屋城の天守閣の姿が最も美しい3箇所のポイントを紹介した。天気があまり良くなかったので写真に迫力がないが、真っ青な快晴の時に写せばコントラストがはっきりしていい写真が撮れるかもしれない。
3年ほど前、糖尿病で市役所の東の“三の丸病院”に教育入院していた時、毎日、朝・昼・晩と3回1時間ずつウォーキングコースを歩いた。一周すると15分くらいかかる。4周を目標に黙々と歩いた。朝は公園のあちこちでラジオ体操や太極拳をやっているグループがある。猫に毎日えさをやりに来る人、御深池に蓮の咲く頃には写真を撮る人が集まる。白鳥の写真を毎日撮りつづけている人もいた。フラワープラザはいつも何かの花が咲いていて目の保養となる。“雑花屋”という喫茶室のコーヒーは安くておいしかった。(全面禁煙になってしまってから行かなくなってしまった。)
土日は名城公園の周囲は駐車可能だが、いつも満杯状態である。ウォーキングやテニス場・スポーツ会館の利用者なのだろう。
さて、堀川についてである。黒川治愿は、弘化4年(1847)に岐阜県稲葉郡佐波村(現岐阜県羽島郡柳津町)に川瀬文博の次男として生まれた。幼名を鎌之助という。明治維新の年、20才の時、治愿は京都に出た。御所の役人黒川敬弘に見込まれその養子となった。明治5年(1872)香川県、翌年には徳島県の役人となった。明治8年(1875)29才の時に、愛知県に赴任した。時の愛知県令安場保和は、黒川治愿に河川改修を命じ、土木工事のすべてをまかせた。明治9年(1876)に大幸川の改修工事にとりかかり、その工事が翌年完成すると、すぐに入鹿池の堤防の改修工事にかかった。入鹿池は明治元年(1868)の大豪雨により河内屋堤防が決壊し、死者千余名、流失家屋八百余戸という大惨事を起こしていた。補修工事が行われたが、住民の不安はなかなか消えない。明治12年(1879)安場保和は黒川治愿に命じて抜本的な工事にとりかからせた。尾張富士山麓に続く岩盤地帯を爆破して水の流れを作り、砕いた岩石で丈夫な堤防に改築した。大幸川、新木津用水、入鹿池の他に彼が手がけた工事は、明治用水の改修工事、明治17年の宮田用水の工事などがある。
病気療養のため明治20年(1887)に職を辞し、明治30年(1897)名古屋久屋町で51才の人生の幕をとじた。

堀端橋からの天守閣。

堀端からの天守閣。

御深井池からの天守閣。

堀端橋。

堀端橋から中土戸橋方向を眺める。

名城公園の御深井池のあたりの野良猫。ここは猫の天国。

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