黒川とそれを作った黒川治愿(くろかわはるよし)について書こうと思い調べ始めたのだが、簡単にまとまる話ではないことがわかってきた。
幸いネット上で2つの素晴らしいサイトに出会い、その記事を参考にしながら、自分なりの記事をまとめてみることにした。
ひとつは、「名古屋 歴史ワンダーランド」
http://itou1.cool.ne.jp/rekisi/rekisi-index/indexrekisi.htm
もうひとつは、「名古屋 再発見」
http://www.aichima.net/rekishi/index.html
さて、名古屋城が築城された当時、城下の水は、ほぼ湧水や井戸水でまかなわれていた。名古屋台地は、東の丘陵部から西に向かっていくつかの水脈が流れ、北区の「清水」とか東区の「泉」という地名に象徴されるように、水の豊かな地帯であった。名古屋城の北の御深井もまた水の湧き出る地であった。鍋屋町の松山神社の「恵の水」は現在でも生き残っている地下水脈のあかしである。
しかし、築城から半世紀が過ぎ、城の西側の地に人が住み始めると、そこは清水に恵まれない地であったため、たちまち水に困ることとなった。泥江(ひじえ)という地名が示すように、城西の地は、濁った泥水がたまる地帯であったのだ。2代尾張藩主光友は、寛文3年(1663)、庄内川から名古屋城まで水を引き、その水を上水として供給するよう御用人・小瀬新右衛門らに命じた。それが、竜泉寺の南(現守山区川村の地)の庄内川から水路を開削し、名古屋城御深井まで引いた「御用水」である。名古屋城の堀まで導かれた水は、「辰之口水道大樋」で調節され、その先はヒノキの板で作った樋(とい)によって給水する「巾下上水」となり、城西の町に供給されたのである。江戸の玉川上水や神田上水と同じように、名古屋の住民も早くから水道の水を飲んでいたのだ。
天明4年(1767)からは、大幸川の流路を「御用水」に付け替え、堀川に流すようにした。前に、堀川掘留の朝日橋を記事にしたが、その朝日橋の一つ北の橋が「大幸橋」である。砂田橋のあたりが「大幸」という地名だが、この二つは「大幸川」という今は消滅してしまった川に由来している。「大幸川」は、現在の平和公園の北西あたりに水源を持ち、砂田橋から矢田川に平行して西に流れ、御用水に注いだ。(砂田橋は大幸川に架かる橋の名前である。)
「辰之口水道大樋」から北の地は、樋の口町といい、現在ウエスティンキャッスルのある場所には、明治から終戦の年まで「名古屋好生館」という病院があった。

名古屋城の西側。辰之口水道大樋の前の石垣。

辰之口水道大樋。ウエスティンキャッスルの南側にある。

石積の樋。堀の水位の調整も行う。

今日の堀の水位は低く、干上がった岸辺で鴨たちが日向ぼっこをしていた。雄の青首一羽が目覚めて水辺に水を飲みに行く。

大幸川ゆかりの大幸橋。朝日橋の一つ北。

掘留の朝日橋から大幸橋を望む。正面はウエスティンキャッスル。
堀川掘留
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お天道さまの松山神社
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名古屋好生館
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