「羊神社」の続きである。
戌年の今年は、西区の「伊奴(イヌ)神社」が話題になったが、3年前の未年、2003年(平成14)にはこの「羊神社」がクローズアップされた。
当時の新聞記事(中日新聞2003.1.5付けの要約)を載せると
『初詣での人もいっぱい訪れた名古屋市北区辻町の羊神社。ひつじ年の今年、伝説上の人物「羊太夫」にゆかりのあるここが、ひときわ脚光を浴びそう。
羊太夫は、群馬県吉井町に伝わる伝説によると、稲妻のような速さで走る家来とともに毎日、奈良の都へ通勤した。いたずら心から、羊太夫が家来の肩にはえている翼を抜いたところ、走ることができなくなった。朝廷は、通勤しなくなった羊太夫が悪事をたくらんでいると思い、大軍を差し向けて攻め滅ぼしたが、その後、無実が明らかになり丁重に弔ったという。
一方、北区の羊神社の由来によると、吉井町の羊太夫が、都へ上る途中に立ち寄った屋敷が辻町にあり、羊太夫が火の神を祭ったことから「羊神社」と呼ばれるようになった。辻町という地名も「ひつじ」からきているという。
羊太夫に関係すると言われる国の特別史跡・多胡碑を記念して吉井町が建設した多胡碑記念館は、ひつじ年にちなみ、群馬では知られていない名古屋の羊神社の由来を紹介し、羊太夫伝説に光を当て直したい考えという。同館の館長は、自ら『続日本紀』などを調べた上で「奈良時代の和銅7年(714)に、上野国(現在の群馬県)の国司だった平群朝臣安麻呂が、尾張国司に転任している。羊太夫は平群氏を訪ねて名古屋へ立ち寄ったのではないか」との仮説を立て、吉井町と羊神社の縁の深さを強調する。』
国指定特別史跡の「多胡碑」(タゴノヒ)は、群馬県吉井町大字池にあって、「金井沢碑」・「山の上の碑」とともに上野(コウヅケ)三碑として知られ、栃木県にある「那須国造碑」、宮城県にある「多賀城碑」とあわせて“日本三碑”として有名である。

「多胡碑」碑文面 2行目の一番下に「羊」の文字
石碑は台石・碑身・笠石で構成され、碑身は高さ1.27m、幅0.6mの花崗岩質砂岩で、
弁管符上野国片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宜左中弁正五位下多冶比真人
太政官ニ品積親王左大臣正ニ
位右上尊右大臣正ニ位藤原尊」
と、6行に80字が刻まれている。「多胡碑」の研究家尾崎喜左雄氏(群馬大学名誉教授)による読み下しは
「@〈弁官の符〉に、上野の国A〈片岡の郡、緑野の郡、甘良(から)の郡〉并に三郡の内、三百戸を郡と成し、羊に給して多胡郡と成す。和銅四年(711)三月九日甲寅の宣なり。左中弁は正五位下B〈多治比真人〉、太政官は二品C穂積親王、左太臣は正二位D〈石上の尊〉、右太臣は正二位E〈藤原の尊〉なり」
注 @… 太政官の弁官による命令。A… 3郡とも、現在の吉井町から高崎市・藤岡市のあたりにあった。B… 秩父銅山の鋳銭司や東山道の按察使を歴任した多治比真人三宅麻呂 C… 天武天皇の皇子で、知太政官事であった人物。D… 石上麻呂 E… 藤原不比等
尾崎氏は、「羊は渡来人で、“給羊”は、“羊”という人が郡司にあてられ、しかも正式任命の来ない前の状態である」と推測する。
律令では、郷(715年以前は里)の単位は、50戸を1郷としたので、“羊”が給わったという300戸は、破格に大きな戸数である。恐らく朝鮮からの渡来人の移住にともなう郷の再編が行われたのであろう。
多胡の“胡”という字は、「胡人・胡弓・胡椒・胡瓜・胡麻・胡桃・・」などでわかるように、西方から渡来・伝来したことを意味する言葉である。碑文の中に出てくる「甘良(から)」という郡名も加羅(韓)に由来しているように、吉井町のあたりには多くの渡来人が移住したので、「多胡」という地名が生じたと思われる。
また、古い文献に“羊”の人名が数多く見られ、上野国分寺の文字瓦にも“羊”を刻んだものが多数出土し、多胡郡内と思われる土地からも、奈良時代の瓦と考えられる「羊子三」の文字瓦も発見されている。「多胡碑」のある吉井町の町誌によると、「多胡碑」そのものが、土地の人達からは「羊さま」と称され、神様として祀られてきたという。又、後の時代に形成される「羊太夫」の伝説を通しても大層親しまれてきたという。
さて、群馬の「羊太夫」と北区辻町の「羊神社」との関連は、推測の域をでないが、「羊太夫」に象徴される渡来系の技術者集団がこの地にも居住したことにあるのだろう。平安時代の『延喜式神明帳』に「羊神社」と記載されているから、それを祀った集団が確実に居住していたことは確かだ。
先に「児子八幡宮」の項で記した、八幡信仰の担い手の“秦”一族のほかにも須恵器を製作した“陶作(スエツクリ)”の一族などもあちこちに足跡を残している(小牧の末村や千種区の末盛などが該当する)。
“秦”一族は、本来の養蚕・機織りのほか、農業土木技術に加え、採銅・製銅技術も持ち、東大寺大仏建立に助力しているし、和同開珎の鋳造にも関わっているようだ。“秦”一族は、「羊神社」で火の神「火之迦具土神(ホノカグツチノカミ)」を祀る“羊”一族(?)も含みこんでいたのではないだろうか。
弥生時代に志賀に居住し「綿神社」を創建した“安曇”一族、その後、機織りの技術を広め「多奈波太神社」を創建し、八幡信仰をもたらした“秦”一族、採銅・製銅・製鉄の技術を持ち「羊神社」を創建した“羊”一族、弥生期から何重にも渡来の波は押し寄せ、古代朝鮮人と原日本人は融合していったと思われる。

「多胡碑」全体図

「多胡碑」は現在、覆屋に保護されている。

群馬県安中市中野谷にも「羊神社」があった。

こちらが、名古屋の辻町の「羊神社」。

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