2004/7/17

分岐するも、それは、在るのだ。  かたる




   昨夜、高校時代の友人、何人かと会った。
友人のお母さんが亡くなって通夜の席。
そいつとはメールでのやり取りはちょくちょくあったものの、ここ2〜3年、顔をあわせることはなかった。
ほかのやつらともだいたい同じようなものだ。
まあ、文字どおり、青春時代を一緒に過ごした仲間である。

そして、どこかで青春時代は終わり、みんな大人になった、はずである。
でも、それは、どこで区切ればいいのだろう?
何年かに一度会うだけなのにそのときばかりは日常が吹っ飛んで、大人としての不思議な違和感があるのは何故だろう?


卒業後何十年、それぞれの道をそれぞれが別々に歩んできた。
そうして、時々、なんかの拍子で集まって飲んだりする。
何年かに一度なので仮に卒業後30年として1年に1度で30日、2年に一度で15日、3年に一度だと10日、卒業後に会ったわけだ。
たった?
そう、たったそれだけ。
30年過ったはずなのに。

卒業の年だけでも最低30日は一緒にいたわけで、その後30年かかってもやっとその時から1ヶ月過ぎただけの計算だ。

やつらと飲むときの不思議な違和感はこれだな。

となると、やっぱ、どこで区切ればいいんだろう?
青春時代はまだ、本当は、終わってないのではないか?

 

記憶の中での時は、昨日も何十年昔も、大差ない。
記憶はそれぞれの時代、というよりもカテゴリーでくくられているような気がするからだ。

楽しかった記憶、哀しかった記憶、怖かった記憶、苦しかった記憶、むかついた記憶、などなど。
言うまでも無く、その記憶のカテゴリーの中でのランキングは時代順ではない。
つまりはどんなに古い記憶であろうが一番怖かったことは怖かった記憶の引き出しの一番上にある。

例えば、自分の家というカテゴリーの記憶。
普段はあまり意識しないカテゴリーなのだが、いまだ、夢の中で住んでいるのは18歳まで暮らしていた市営のアパートなのである。
おそらく、それがおいらの『家としての記憶』の一番の家なのだろう。

そして、時はまた、川の流れのようでも、ある。
一本から始まった弱々しい流れが、次第に幾つもに分岐し、支流となり、ランダムな記憶だったものはやがて、(支流それぞれの流れるスピードは違うものの)大海でまたひとつになるのだろう。

おそらく、自分は今、幾つもの分岐を経ての時の主流にいる。


不思議なのだが、やつらに会うたびにあの時代から分岐した別の流れの時に、ふと、入り込むことが出来る、気がする。

そこは10代後半のままとてもスローに流れている支流で、
そこには上位ランキングされたいろいろなカテゴリーの記憶があり、
そして、
そこでは、あいつは彼女が出来たとはしゃぎ、
あいつは足が3本も入りそうなボンタンを得意そうに穿き、
あいつは時代を嘆き、
あいつは未来を見つめ、
そして、おいらは、そんなやつらに囲まれて、
笑っているのだ。

時がまだ、幾つにも分岐していなかったそこに、きっと、青春が在ったのだろう。
そしてそこはほんとうに居心地の良い場所だったのだろう。



記憶を時で区切ることは無い。


いつだってやつらはそこにいて、そして、そこはまだ、在るのだ。
今と共存して、絶対に、そこは在るのだ。

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