そうそう、日本生命セ・パ交流戦というと、例年パ・リーグが強くて、今年もパの60勝47敗1分。
ついでにいうと、今年まで12回行って、11回までがパ・リーグのチームが優勝or最高勝率。リーグ単位の成績でいくと、初期は競り合いの末に僅差がパに軍配が上がる感じだったのが、2010年辺りから、差が開く年が何度かあったりしたのですが、とにかく現行の18試合制のリーグ対抗戦形式になった昨年と今年は、フルボッコ状態。
端的に云えば、過去、散々日陰の存在だったパ・リーグが意地を見せているのかも知れません。
こういう顕著な差が出るからには、様々な要因が取りざたされることになるのですが、ここはちょっとここ四半世紀くらいを、パ・リーグサイドの視点で振り返りつつ、探りを入れてみようと思います。
あ、基本、選手とかは敬称略で書きますので、そこのところはご了承くださいな。
たぶん、ここからスタートするのが良いかなというのが、
1985年11月20日――
ホテルグランドパレスで開かれた新人選択会議、いわゆる、ドラフト会議ですね。
この年は、阪神タイガースが日本一になったのですが、まあ、なんつーか、ちょっとした社会現象というか、そこら中トラトラトラ状態でした。
本題に入ります。
で、この年のドラフト会議の目玉といえば、まあ、今、白い粉関係で話題のあの人(おい)、PL学園高校の清原和博でした。とはいえ、基本的に清原は讀賣入り(さもなくば阪神)を熱望しており、それ以外なら社会人野球(確か日本生命)に進むものと思われてました。
ところが、讀賣が1位で指名したのは、同じPL学園の桑田真澄だったんですね。
当初、早稲田大学に進学を表明していたこともあり、いわゆる「一本釣り」の形になり、密約説も流れました。それで、その後、ダーティーなイメージが定着し、数々のマンガ家によって、ネタにされる存在になっていきます。
その辺は、ここでは関係ないので、はしょりますよ。
とにもかくにも、6球団(鷹公虎猫牛竜)の抽選の末、西武が交渉権獲得。
けっこうすったもんだがあったとは思いますが、そこは何せ根本管理部長全盛当時の西武ですから、見事に契約にこぎつけたわけです。
というわけで、周辺の期待とは裏腹に、80年代高校野球のスーパースター・KKコンビの一角が、暗黒時代真っ只中のパ・リーグの球団に獲られるという、当時としては悲劇的な結末になりました。

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